辰の年の終わりに。
2024年12月25日
へこりと at 06:17
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師走 7
今年も日本のあちこちで災害が起きた。元日、巨大な龍が能登半島で
暴れた。土砂が崩れ津波が押し寄せ、大きな火災が起きて、家屋がつぶれ、
たくさんの犠牲者が出てしまったのだった。よりによって一年の始まりの、みんなが明るく穏やかに祝いの気持ちでいるところに襲った災害だった。
悲惨な年明けに、能登のかたがたの心情を思うとなんともやりきれない
気持ちになった。
仮設住宅が出来て、避難所での窮屈な暮らしから解放されたと
思ったら、九月には再び天の龍にやられた。豪雨によって川が氾濫して、
道路が冠水して、家々に水があふれ、またしても犠牲者が出てしまった。
十月に、能登半島の入り口、七尾に行ってみたら、JRの七尾駅から港まで、わずか800mの通りのあちこちに、地震で壊れた家屋があちこちにあり、
重機で壊されている家屋もあった。
元日から遅々として進んでいない復旧を見て、暗い気分になってしまった。
ユーチューブを開いては、能登の様子を観ている。
水道に電気にガス、この年末に来てようやく使えるようになった地区が
あり、復旧が進んでいないのだった。
能登地震がずっと頭から離れない、そんな辰の年だった。
毎年、景気が悪く貯えもなく、この先どうなるかと思うと、バカ酔っぱの
お気楽な身でも、不安がつのって来る。
それでも、借金もなく住む家があり、毎日好きなものを飲み食い出来て、
暖かな布団で寝られること。どれだけ有難いことか、よくよく感じた一年
だった。
能登のかたがたはどんな気持ちで新たな年を迎えるのだろう。
壊れた家屋の片づけをするかたや、仮施設で商売を再開した輪島の
朝市のかたや地元の商店のかた、ご家族を亡くされたかた、あれだけの
つらい思いをしたのに、皆頑張ります、頑張らなきゃと笑顔を見せる。
ほんとに頭が下がる思いになる。
冬の寒さが増してくる。能登のかたがたはこの一年、心身多大な無理を
かけてきた。年が明けてもまだそんな暮らしが続いていく。
どうか無事に乗り切っていけますように。
巳の年、気持ちを込めて祈りたい。
一年間親しくさせていただいた皆さん、ありがとうございました。
良い巳の年を迎えられますよう。
被災地へ思い重ねて年の果て。
有難い気持ちに。
2024年12月24日
へこりと at 08:31
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師走 6
平日の昼どき、暇にまかせてユーチューブを覗いていたら、
ごめんくださいと年配の男性が訪ねてきた。
はて、どなたかなと腰を上げたら、やまとも庵ですと
名乗られたのだった。あ~っ、そうだそうだ、やまとも庵の
御主人だと思い出し、慌てて挨拶を返した。
長野電鉄、本郷駅から北へ上がった道沿いに、「やまとも庵」
という蕎麦屋が在った。若い頃近所に住んでいて、
蕎麦屋の昼酒、夜酒にしょっちゅう暖簾をくぐっていた。旨い
蕎麦と酒と肴もさることながら、御主人と女将さんの温かな接客に、
いつも癒されていた。
ところが、善光寺の近くに現在の仕事場兼住まいを構えてからは、
何年もご無沙汰続きになってしまった。そんな今年の秋、
「やまとも庵」が閉店するという知らせを受けたのだった。
足が遠のいていたとはいえ、さんざん世話になった店だった。
閉店前に、お礼かたがた菓子折りを持って、最後の昼酒にうかがった。
後日そのことをブログに書き上げたら、たまたま御主人が見つけて
くださったのだった。
ブログに書いて頂きありがとうございますと、店で使っていた名入り
のどんぶりと、松本の菓舗、開運堂の和菓子を持ってきてくださった。
それにしても、よくこちらの住まいがわかりましたねと尋ねたら、
プログラマーをしている娘婿に探してもらったという。
きっと過去のブログから、住まいの在りかや仕事を探し当ててくれた
ことと思う。
手間をかけてわざわざ訪ねて来てくださった気持ちが嬉しくて、胸が
温かくなった。
どうぞ女将さんとゆっくりと新年を迎えてくださいと、お礼を述べて
うしろ姿を見送った。
今年は年明けから、しくじりごとが多かった。自己嫌悪に陥ることが
いくつかあって、人さまにも迷惑をかけてしまった。
そんなバカ者でも、見限ることなく付き合ってくれる身近なかたがたが
いてくれたおかげで、温かな気持ちで一年を過ごすことが出来たの
だった。後日、「やまとも庵」のホームページを覗いてみたら、
閉店の知らせとお客への感謝の言葉と共に、我が身のブログが紹介されて
いた。懐かしいかたの温かな人柄がしみじみ染み入ったのだった。
燗酒やしくじり数多悔い数多。
https://yamatomoan.com/
ユネスコ無形文化遺産を。
2024年12月20日
へこりと at 09:30
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師走 5
冬の初め、甥っ子夫婦が長野にやって来た。
旬の新蕎麦詣でに来たのだった。着いた日の夜は、長野駅前の
飲み屋で杯を交わし、翌日の昼どき、善光寺仲見世の蕎麦屋、
「丸清」におじゃまして、ロースかつをつまみにエビスを
飲んで、新蕎麦で締めた。
夕方どき、町なかの温泉施設、権堂温泉の柔らかな湯に浸かり、
体を温めたら、権堂アーケードの蕎麦居酒屋、「二本松」に
おじゃました。
この店に来るのはずいぶん久しぶりだけれど、御主人は相変わらず
にこにこと感じが好く、アルバイトの学生も、皆きびきびと動き
回っていて気持ちが好い。料理を突っつきながら蕎麦焼酎の
蕎麦湯割りの杯を重ねて、新蕎麦で締めたのだった。
翌日の昼どきには、自宅から西へ300mの場所に在る、「戸隠つきや」
におじゃました。
あれこれ長野の地酒の杯を重ね、戸隠の新蕎麦で締めた。
二泊三日の間、よく蕎麦屋で飲んだことだった。
日を置いた十二月中旬、西の街に暮らす友だちからメールが届く。
本日、松本に行く予定です。よければ一献をとのお誘いだった。
特急しなのに飛び乗って松本に着いたら、気に入りの、四柱神社の
そばに在る居酒屋、「深酒」に予約を入れて、日の沈むころに
落ち合って、旨い肴で久しぶりの杯を交わし、おおいに酔ったのだった。
そんなふうに酔っ払って、すっかり飲み疲れていたら、嬉しいニュースが
飛び込んできた。
このたびユネスコの無形文化遺産に、日本の酒造りが選ばれたという。
親しいお蔵さんから、米の出来具合や気候の様子に予期せぬことがあったり、過労による体調不良に見舞われたり、これまで何度も造りの苦労話を
うかがっていた。
旨い味を醸すために努力を重ねる、お蔵さんがたの真摯な
姿勢が世界に認められたかと思うと、酒好きの身も嬉しくなった。
国内での日本酒の出荷量は減っているものの、海外への出荷量は
増えていて、地元長野でも、海外に輸出をしているお蔵さんがある。
和食だけでなく、フレンチやイタリアンに合う味も増えている。
身近でも、善光寺へ観光に来た外国人が、夜ともなれば繁華街の飲み屋に
陣取って、日本酒をがばがばやっている姿が今や当たり前の光景になって
いる。
旨い酒をたくさん飲んで、旅の好い思い出になればと眺めている。
今年もあとわずか。飲みすぎた一年の反省をしながら締めの酒を酌むことと
する。
飲み疲れ重ね重ねて師走かな。

笑いと歌のひとときに。
2024年12月17日
へこりと at 09:14
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師走 4
友だちに、ライブに行こうと誘われた。
コロッケと美川憲一が長野に来るというのだった。
父と二人で行くはずだったのに、最近腰を痛めて
動けなくなってしまった。余分になったチケットを
こちらに割り当ててくれたのだった。
当日、会場のホクト文化ホールに行くと、年配の
男女のかたがたが会場に吸い込まれていく。
ステージの両脇からど派手な衣装のお二人が登場すると、
歓声に包まれた。二人の掛け合いが続いたあと、
コロッケのものまねメドレーが披露され、かつてテレビで
観た覚えのある、岩崎宏美や五木ひろしや森進一の
ものまねに、会場が賑やかな笑いに包まれる。
続いて登場した美川憲一は、柳ヶ瀬ブルースや新潟ブルース、
若い頃のヒット曲を披露した。
柳ヶ瀬ブルースがヒットしたのは、こちらがまだ子供の頃
だったのに、けっこう覚えている。
あああ~ああ、やながせのよる~にないている~。
ヒットしてから、歌番組でたびたび歌っていたのが、
幼いころの記憶に残っていたのだった。
美川憲一もずいぶんお歳を召されたのに、歌声に張りがある。
ステージを歩く足取りにお歳を感じる
ものの、凛としている姿がかっこよかった。
そのあと再びコロッケのものまねがあり、また大きな笑いが
沸く。笑いを取るために芸にあれこれ工夫をこらしてきた
けれど、以前とちがって最近は、コンプライアンスが厳しくて
出来ない芸もあるというのだった。
再び現れた美川憲一の、尊敬する越路吹雪の愛の賛歌が胸に
染み入って、さいごはさそり座の女を二人で熱唱して、
笑いとほれぼれする歌声のひとときが終わった。翌日、
美川憲一を調べてみたら、ヒット曲を連発したあとに、大麻で
二度捕まって、それをきっかけに人気が落ちた。
ところがそれからしばらくしたら、テレビでいろんな
タレントのものまねブームが始まって、
コロッケのものまねで再び人気に火がついたのだった。
七年前に左足を骨折して、三時間に及ぶ手術を受けていた。
足取りのおぼつかないのはそのせいだったかと合点がいった。
ライブの様子を思い出せば、嬉しそうに笑顔ではじけている
会場のおじいちゃのばあちゃんの姿が目に浮かぶ。
お二人の華々しいステージがみんなに元気をくれたこと
だった。
柳ケ瀬や淑女の涙冬の月。
シンペイ歌こそすべてを。
2024年12月13日
へこりと at 10:07
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師走 3
日曜日の夕方、上田へ出かけた。駅を出てそのまま
馴染みの飲み屋の「幸村」の暖簾をくぐった。
カウンターの奥の席に落ちついて、まずは一番搾りで
のどを潤した。この店はありがたいことに、年中無休で
夕方の四時から営業している。常連さんや、出張や観光で
来た県外のお客でいつも賑わっているのだった。
軟骨焼きをつまみに、二階堂のロックをちびちびやって
いたら、隣の席に、年配の男性が着席された。
店の御主人と親しげに話されているから常連さんと察しが
ついた。すると、こちら映画監督の神山征二郎さん。
シンペイを作った人と紹介されたのだった。この頃上映が
始まった「シンペイ歌こそすべて」は長野県中野市出身で、
「しゃぼん玉」や「てるてる坊主」の童謡や、歌謡曲の
「カチューシャの唄」や「東京行進曲」の作曲家、
中山晋平の生涯を綴った作品だった。神山監督は
上田市在住で、ずっと中山晋平の作品を作りたかったという。
ここでひとつ、長い間の疑問が解けた。監督が座っている
L字型のカウンターの、いちばん奥の席はいつも空けてある。
どうしてお客を座らせないんだろうと不思議に思っていた
ところ、なるほど、この席は神山監督の定席だったのだと
わかった。明日、観に行ってきますと挨拶をして店を後に
した。
翌朝、上田城跡公園の紅葉を眺めに出た。今年はどこも
色づきが遅いから、公園のケヤキ並木も今が見頃と
あたりをつけて行ったら、すでにすっかり葉が落ちていた。
公園内が落ち葉に埋まり、かろうじてイチョウの黄色が
冴えていた。
お堀のまわりをひと回りして、時間を見計らって、
東宝シネマズ上田へ出かけた。
映画の中には城跡公園や招魂社など上田の景色があちこち
出てきて、「幸村」もロケに使われていた。神山監督の
上田愛が感じられたのだった。
後日、神山監督について調べてみたら、覚えのある有名な
作品を数多く作っていて、たくさんのコンクールで受賞も
されているかただった。知らぬこととはいえ、一献の席を
ご一緒していただいて、まことに申しわけのないことだった。
空き席の意図ようやくに冬の暮。

日曜日の夕方、上田へ出かけた。駅を出てそのまま
馴染みの飲み屋の「幸村」の暖簾をくぐった。
カウンターの奥の席に落ちついて、まずは一番搾りで
のどを潤した。この店はありがたいことに、年中無休で
夕方の四時から営業している。常連さんや、出張や観光で
来た県外のお客でいつも賑わっているのだった。
軟骨焼きをつまみに、二階堂のロックをちびちびやって
いたら、隣の席に、年配の男性が着席された。
店の御主人と親しげに話されているから常連さんと察しが
ついた。すると、こちら映画監督の神山征二郎さん。
シンペイを作った人と紹介されたのだった。この頃上映が
始まった「シンペイ歌こそすべて」は長野県中野市出身で、
「しゃぼん玉」や「てるてる坊主」の童謡や、歌謡曲の
「カチューシャの唄」や「東京行進曲」の作曲家、
中山晋平の生涯を綴った作品だった。神山監督は
上田市在住で、ずっと中山晋平の作品を作りたかったという。
ここでひとつ、長い間の疑問が解けた。監督が座っている
L字型のカウンターの、いちばん奥の席はいつも空けてある。
どうしてお客を座らせないんだろうと不思議に思っていた
ところ、なるほど、この席は神山監督の定席だったのだと
わかった。明日、観に行ってきますと挨拶をして店を後に
した。
翌朝、上田城跡公園の紅葉を眺めに出た。今年はどこも
色づきが遅いから、公園のケヤキ並木も今が見頃と
あたりをつけて行ったら、すでにすっかり葉が落ちていた。
公園内が落ち葉に埋まり、かろうじてイチョウの黄色が
冴えていた。
お堀のまわりをひと回りして、時間を見計らって、
東宝シネマズ上田へ出かけた。
映画の中には城跡公園や招魂社など上田の景色があちこち
出てきて、「幸村」もロケに使われていた。神山監督の
上田愛が感じられたのだった。
後日、神山監督について調べてみたら、覚えのある有名な
作品を数多く作っていて、たくさんのコンクールで受賞も
されているかただった。知らぬこととはいえ、一献の席を
ご一緒していただいて、まことに申しわけのないことだった。
空き席の意図ようやくに冬の暮。
腕時計に思いを。
2024年12月06日
へこりと at 09:32
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師走 2
七年前に父が亡くなったときに、遺品を片付けて
いたら、古い腕時計が出てきた。友だちのつてで直してくれる
時計屋が見つかって修理をお願いした。
金属製のベルトを薄茶色の革のベルトに変えてもらい、
オーバーホールをしてもらい、以来、無事に動いている。
昭和三十五年のセイコー・クラウンは当時の高級腕時計だった。
薄給の公務員だった父に買える代物ではないから、美容師として
羽振りの良かった母に買ってもらったと察しがつく。
皮のベルトがくたびれてきたので、新調した。このたびは
青色のベルトにしたら、古い時計の表情も若返り、嬉しいことだった。
初めて腕時計を着けたのは高校生のときだった。父が
仕事場の宴会の余興でくじに当たり、その当時出回り始めた
ばかりのデジタル時計をもらってきたのだった。
今のようにいろいろな機能が付いているわけではなく、
ただ時間を示すだけの重たい時計だった。高校生のときに
部活で陸上をやっていた。時計を使い始めてしばらく経った
夏のある日、練習場で着替えをしたときに、時計を外したまま
その場に忘れてしまった。運が悪いことに、その日の晩から
雨が降った。翌日練習場へ行って時計を確かめたら、雨に濡れて
画面がすっかり消えていた。
大学生だったときに、兄に買ってもらったことがあった。
シチズンの、文字盤とデジタルの両方が付いていたモデルだった。
大学生のときに一時、部活でバスケットボールをやっていた。
試合のときに、会場の更衣室で着替えたときに、うっかり
外したまま置き忘れた。しばらくして慌てて引き返してみたら、
すでに盗られた後だった。以来、長らく時計を着けることは
なかった。運動不足解消にランニングを始めるようになってから、
再び着け始めたのだった。
水仕事をするので、仕事中は防水の効いたカシオのG-ショックを
使っている。
もうひとつセイコーの時計を持っている。二年前の還暦の折り、
同業の友だち二人から贈られたものだった。還暦に合わせて
文字盤が赤色で、思いがけぬ気遣いに胸が温かくなって、
ありがたく使わせてもらっている。
そういえば友だち二人、それぞれいくつになるんだっけ?
還暦になったらお祝い返し、年齢を確かめておかなきゃいけない
のだった。
冬うらら形見の時計腕に巻き。
焼き鳥詣でに。
2024年12月03日
へこりと at 13:23
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師走 1
先日飲み仲間のかたがたと、初めての焼き鳥屋に伺った。
ちょいと前に開店した店で、入口にぽつっと灯りが置いてあり、
看板もなく、暖簾に屋号がささやかに描いてある。
焼き鳥屋というよりも、小料理屋のような構えの店だった。
当日、おじゃまして暖簾をくぐったら、店内もこざっぱりとした
雰囲気で、一見焼き鳥屋とは思えない。
カウンターの奥のテーブル席に落ちついて、ビールで乾杯をして、
お通しを突っついていたら、奥の部屋から白衣姿のご主人が出て
きて、我々の前を黙って通り過ぎて行った。しばらくしたら、
同じく白衣姿の男性も黙って通り過ぎて行った。
ハイボールを飲みながら、焼き鳥やサラダを食べていたら、
三本目のつくねに思わず目が留まる。目の前のかたに置かれた
つくねが明らかに焼き過ぎで、串に刺さった三つのうちの
ひとつの実の半分近くが真っ黒に焦げていたのだった。
ふつう、こんなのお客に出せないだろうと、店の雰囲気に
そぐわない焼き鳥に啞然としてしまった。
愛想がないのか寡黙なのか、店を出る際にもこれといった挨拶もなく、
店の雰囲気と料理と御主人がたの態度が、なんともちぐはぐな店
だった。
焼き鳥の油がつよい感じがして、元来胃腸の弱い身は、案の定
帰り道で、腹の具合ががおかしくなって焦った。
結局いちばん印象が好かったのは、アルバイトの大学生の
男の子の、笑顔のはきはきした接客だった。
ひとりで飲みに行くのは、縁あって常連になった馴染みの店
ばかりで、どこの店でも気の置けないひとときを頂いている。
そんな中、この秋珍しく初めての店におじゃました。長野市の
権堂アーケードの映画館、長野ロキシーの入り口に在る、
「まると」という名の焼き鳥屋だった。
酒屋を営む友だちがいて、この秋に権堂アーケード界隈で
日本酒のイベントを行った。それに参加してくれたのだった。
イベント前に、どんな店か気になっておじゃましたら、
カウンター越しにかわいい女の子が迎えてくれた。焼き鳥を
食べながら、ビールと焼酎を飲みつつイベント絡みの話を
すれば、明るい笑顔の受け答えが好い。
焼き鳥を焼いているご主人も、手が空くと話し相手に加わって
くださり、気遣いがうかがえた。
ときどきおじゃましたいことと思ったのだった。
焦げ過ぎのつくね眺める寒さかな。
初冬の花火に。
2024年11月29日
へこりと at 09:48
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霜月 8
毎年11月19日は、自宅のそばの、西宮神社のえびす講が開かれる。
神社のまわりにだるまや熊手の縁起物や、焼きそばや唐揚げに
お好み焼きなど食べ物の屋台が並ぶのだった。
この日は夕方から、同業のかたがたと飲み会が入っていた。
明るい神社を遠めに眺めながら、通りを下りていく。神社から
ちょっと離れたこの通りにも、昔は屋台がずらりと並んでいた。
景気が良かった頃は、神社の1キロ先まで参拝客が列を成していた
という。
景気の波がすっかり引いてしまい、年々活気がなくなっているの
だった。
毎年、ずっと同じだるま屋からだるまを買っていた。
いつも名入りのだるまを届けに来てくれるのに、今年はついぞ
姿を見せず、だるまが買えず終いになってしまった。だるまを買う
だけの間柄で、名前も存じ上げないかただった。どんな事情で
今年は売りに来なかったのか、気になってしまったのだった。
飲み会の帰り道に神社にお参りに立ち寄ったら、まだ夜の9時過ぎ
なのに、参拝客がまばらだった。この先どうなるんだろうねえ。
飲み会で盛り上がった気分もちんやりしてしまった。
日を置いた23日の祝日は、えびす講大煙火大会が行われる。
恒例の花火大会は今年で118回を数える。その間、山の上で
上げられたり、学校のグラウンドで上げられたり、安全性や住宅の
増加など諸事情を踏まえて打ち上げ場所を変えてきた。現在は
長野赤十字病院の先に在る、千曲川の河川敷に落ちついている。
長野駅の東口の通路から眺めて、終わったらすぐそばの馴染みの
飲み屋で体を温めたり、ワンカップを温めて、上着を着こんで
自宅のそばの神社の境内から遠めに眺めたり、その時の気分で
初冬の花火を眺めてきた。今年はこの花火大会に合わせて、
長野駅東口の大きな公園で日本酒のイベントが開かれると
いうのだった。当日、薄暮の中大勢の見物客に混じって公園に
着くと、まわりに飲食の屋台がずらっと並び、
顔見知りのお蔵さんたちが、列を成した酔客にせっせと酒を注いで
いた。飲み仲間のかたがたと合流して、冷やかに澄んだ空気の中、
高々と広がる花火を見ていたら、冬が来るなあと、静かに染み入って
来るのだった。
冴ゆる夜や数多の華を見上げつつ。
若いかたがたと。
2024年11月26日
へこりと at 09:44
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霜月 7
先日、馴染みの飲み屋に出かけたところ、カウンターに
先客がいた。初めて見掛ける女性だった。ジントニックを
飲みながら店のご主人とカウンター越しに話をしていたら、
その女性を紹介された。ご主人の自宅の近所に住んでいる
かたなのだった。
話をしているうちに、どういう流れか忘れたけれど、今度、
三人で蕎麦屋の昼酒をやりましょうと相成った。場所はこちらの
馴染みの蕎麦屋でということで。初対面のしょぼくれたおじさんと
昼間から酒に付き合ってくれるのだから、なんともありがたいこと
だった。
日を置いた当日、自宅からほど近い蕎麦屋の丸清におじゃまして
エビスを飲んでいたら、ほどなく女性もやって来た。
しばらくしたら店のご主人から電話がかかって来た。
すみません、前夜飲みすぎまして・・今日は二日酔いで行けません
とのお詫びだった。二日酔いになるほど飲めるのは若い証拠。
お大事にと伝えて、女性と差しつ差されつの昼間酒となった。
きのこおろしや天ぷらをつまみに延々と、大信州の辛口純米の
一合瓶を空にしていったのだった。お互いの仕事のことに、
好みの日本酒のこと、話をしながら杯を重ねた。初めて杯を
交わしているのに、こちらに余計な気遣いをさせることもなく、
まことに楽しい昼酒のひとときを過ごせたことだった。おまけに、
どれだけ飲んでも顔色ひとつ変わらずに、ひょうひょうとしていて
酒がつよい。
新蕎麦を食べてから、もう一軒別の店にはしごして、西之門の
純米吟醸二本で締めた。昨今の若者は日本酒を飲まなくなったと
耳にするから、こんな飲みっぷりの好いかたに出会うと、
なんだか嬉しくなってしまうのだった。
この歳になって、杯を交わすかたがたは年下のかたばかりとなって
いる。皆さんよほど懐が深いのか、だらしのないしょぼくれた
おじさんに、いやな顔もせず付き合ってくれる。
まことに感謝の至りだった。ただ困るのは、こちらは年相応に
体や内臓にガタが来ているのに、若いかたとの楽しい一献に、
同じペースで杯を重ねてしまうことだった。だいたい、
子供の頃から胃腸の弱い体質で、食べすぎ飲みすぎにやられた
ことが数多ある。
調子に乗って飲みすぎた翌朝は、決まって気だるい体で太田胃散の
世話になっている。いよいよ忘年会の時期となる。胃腸の衰えを
よくよく忘れずに、今年の締めの宴にかかりたいものだった。
だるいです連日連夜年忘れ。
昌禅寺の紅葉を。
2024年11月22日
へこりと at 10:18
| Comments(2)
霜月 6
善光寺門前で暮らしている。秋になると善光寺東側の
道路の桜並木が紅く色づくのに、木々がもう痩せ衰えて
しまったせいで、葉の茂りも悪く、この頃は色づく前に
葉が落ちている。なんとも寂しいことだった。
日曜日の午後、友だちからメールが届いた。
さっき昌禅寺行ってきたけど、まだ一部でしたとの
知らせだった。友だちの菩提寺の昌禅寺は、秋になると
境内の紅葉が見事な彩りになる。
写真を撮りに多くのカメラマンが訪れるのだった。
住宅街に在る曹洞宗の古刹で、以前は紅葉の名所と知る人も
少なかったのに、一度テレビのニュースでその模様を
流されてから、広まってしまった。何年か前などは、週末の
紅葉見物の車が住宅街で渋滞して、車同士が事故を起こした
ことがあった。人混み避けて、平日の静かな朝や夕に足を
運んでいるのだった。
今年はいつまでも夏日のような暑さが続き、秋の訪れが
遅かった。どこの紅葉も例年より色づきが遅くなっている。
翌日の午前、昌禅寺まで行ってみると、境内の駐車場に
車がぎっしり停まっている。気の早いカメラマンが
押し寄せているのかと、いぶかしながら入って行ったら、
あちこちで、キャンパスに境内の景色を描いているかたがいた。
絵画愛好家のかたがたの集まりだった。
邪魔にならぬよう境内をひと回りすれば、確かに色づきがまだ
浅かった。十一月中旬でもこの暖かさだからねえ。
それでも染まり始めの紅葉も、それはそれで味がある。
しばし眺めて境内を後にした。
それから三日後の夕方、再び訪ねていくと、短い間にずいぶん
色づいていた。ひと気のない薄暗い境内で紅葉を眺めていたら、
ごーんと鐘が鳴り響き、ご住職の鐘の音に境内の静寂が増した
のだった。
さらに三日後訪れてみると、この日も駐車場に車がぎっしりで、
先週と同じように絵画愛好家のかたがたが、それぞれ先週と同じ
場所で筆を振るっていた。境内の紅葉も見頃の彩りと成ったものの、
昨晩の激しい雨に、ずいぶんと葉が落ちていた。おまけに紅い葉の
色乗りが今一つの感がある。
そういえば昨年も良くなかったと思い出し、夏のばかみたいな
暑さが紅葉にも影響しているのだった。
十一月下旬になって、冬の気配が増してきた。早朝再び訪ねて
みたら、この間よりも紅くなっていた。
短いこの秋に、今年も身近な紅葉を楽しんだのだった。
秋の果て友の菩提寺紅尽くし。
久しぶりの上田で。
2024年11月19日
へこりと at 09:37
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霜月 5
久しぶりに上田へ出かけた。小さな城下町の風情が好きで、
ひと月に二、三度は訪れているのに、十月は休日のたびに
用事があって、なかなか来れなかったのだった。
別宅に荷物を置いてから、甲田理髪店で散髪をしてもらう。
さっぱりと髪を切ってもらったら、ぶらぶら薄暮の通りを
上がって行って、「かぎや」の暖簾をくぐった。
お父さん夫婦と息子さん夫婦が営むこの店は、気さくで
温かな雰囲気が好く、いつ来ても地元のお客で賑わっている。
お通しのひじきの煮物を突っつきながらスーパードライを
飲み始めれば、テレビでは日本シリーズの第六戦、早々に
筒香がソロホームランを放って幸先がいい。長野出身の
牧秀悟が入団してから、ずっとベイスターズを応援している。
ぜひとも今夜日本一に輝いてもらいたいのだった。
くじらの竜田揚げをつまみに、いいちこのロックを飲んで
いると、奥の座敷から、せいやせいやと掛け声が聞こえてきた。
この日は上田真田まつりがあったから、打ち上げの宴の賑わいと
察しがついた。
好い加減で酔っ払って、ローソンで明日の朝食を買って別宅に
戻ったら、トリスの水割りを飲みながら日本シリーズの続きを観た。
ベイスターズの日本一に杯が進みすぎてそのままつぶれた。翌朝、
朝食を済ませてから、上田市立美術館で開催されている、
山本鼎版画大賞展に出かけた。日中の風も冷たくなって、秋の
深まりを感じるようになった。今年は夏の暑さが長引いたせいで、
秋がいきなり来た感が否めない。おかしな陽気に体がついて
いけないのだった。ゆっくりと百五十点余りの作品を観て
美術館を出ればちょうど昼どき、そのまま蕎麦屋の塩田屋に
向かった。暖簾をくぐってビールを飲みながら眺めれば、
壁に貼られた、
「新蕎麦が出回ってお蕎麦が一段と美味しくなりました。」の
台詞が嬉しい。お通しに出された小鉢五品でビールと燗酒を二本、
角の立った冷たいもりで締めたのだった。別宅に戻って昼寝から
覚めた夕方、長野に戻って駅前の馴染みの飲み屋へ行ったら、
暖簾が出ていない。しばらくして気がついた。今日は祝日だった。
馴染みの店はどこも開いてないなあ。諦めて家路をたどったこと
だった。
新蕎麦の知らせ嬉しや酒二合。
八犬伝を観て。
2024年11月15日
へこりと at 09:45
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霜月 4
子供の頃、NHKで「新八犬伝」という人形劇を放送していた。
江戸時代の作家、滝沢馬琴の原作をもとに、
安房の国の領主、里見家にゆかりのある八人の剣士たちの
活躍を描いた物語だった。八人はそれぞれ、仁・義・礼・智・忠
・信・孝・悌の霊玉を持ち、里見家に恨みを持つ女、玉梓の悪霊を
退治するのだった。坂本九のメリハリのある語り口と、波乱万丈な
展開に、毎日放送を楽しみにしていたものだった。また実家に
亡くなった父が若い頃に買いそろえた世界名作全集があって、
その中に「八犬伝」も入っていて、読んだ覚えがある。
この頃、映画「八犬伝」が上映された。この物語はかつて真田広之と
薬師丸ひろ子が主演で映画化されたことがある。そのときはあまりに
つまらなくて、観終わってがっかりしたのを覚えている。このたびは、
山田風太郎の原作をもとに、滝沢馬琴と、絵師葛飾北斎との交流を軸に、「八犬伝」を作りあげていく物語だった。
馬琴を役所広司が、葛飾北斎を内野聖陽が演じている。二人の交流の
合間に、八人の剣士たちの活躍が散りばめられ、物語が進んでいく。
馬琴の息子は体が弱く、また馬琴の妻は仕事に理解を示さず、いつも
小言ばかり言っている。そんな家族との葛藤を抱えつつ、壮大な
物語を書き続けていくのだった。実に物語が完成するまでに二十八年
の歳月を要したという。おまけに途中で失明してしまい、亡くなった
息子の嫁に口述をして、書いてもらったのだった。もともと読み書きの
出来ない嫁が、馬琴のために労を惜しまず、字を覚え完成までこぎつけた。
馬琴の妻役を寺島しのぶが演じており、罵詈雑言を馬琴に浴びせる姿が
まことに憎々し気で好い。息子の嫁を黒木華が演じており、
寡黙に馬琴に尽くす姿が好かった。以前結婚していた時があり、黒木華は
当時の連れ合いに似ているから、観るたびになんだか胸が切なくなって
困るのだった。
最近の若い役者に疎い身は、剣士を演じた若者も全然知らないかたばかり
だった。
最近の若者は、みんなきれいな顔をしていて見惚れてしまう。
迫力のある剣裁きや立ち回りがかっこよく、飽きずに楽しめた。
この映画を作った曽利文彦監督も、子供時代に「新八犬伝」を観ていたと
いい、面白い映画にしてくださった。久々に夢中で観ていた子供の頃を思い出したことだった。
秋深し酌み合いたいや黒木華。
贅沢な土産に。
2024年11月08日
へこりと at 12:36
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霜月 3
毎朝、仕事場の掃除をしながら玉置浩二の曲を
聴いている。ゆったりとした気分で一日を始められるよう、
主にバラードをユーチューブで流している。
二十年ほど前に友だちの結婚式に招かれたことがある。
そのときに、新郎の友だちが、「しあわせのランプ」を
歌ってくれたのだった。好い曲だなあと聴き惚れて、以来
頻繁に聴くようになったのだった。
長野にライブに来た折りは、何度かおじゃまさせてもらった。
玉置さんはライブの間はぜんぜんおしゃべりをしない。
ただ黙々と歌声を響かせるだけ。最近は長野で久しくライブを
行っていない。この秋のツアーも長野は入っていなかった。
以前はチケット一枚9900円だったのに、いつの間にか11500円に
なっていた。ライブに行くにも結構な出費が必要になってしまう
のだった。
大学を卒業したあとに歯磨きや洗剤のメーカー、
「ライオン」の地元の卸問屋に勤めていたことがある。そのときに、
取り引きをしていたスーパーで働いている女の子に、THE・ALFEEの
ライブに誘われたことがあった。
「メリーアン」や「星空のディスタンス」がヒットしていた頃で、
ライブの迫力に酔っていたら、途中で高見沢さんのエレキギターの弦が
切れるというアクシデントがあった。そのお詫びにと、アンコールで
五曲も歌ってくれたのだった。
誘ってくれた女の子とは、そのあと何回か食事に行ったりしたものの、
しばらくしてからこちらが転職をしてからは、会わずじまいに
なってしまった。今でも元気にしていることか、久しぶりに思い出して
しまった。そのTHE・ALFEEの大ファンの友だちがいる。
ライブがあると聞けば、長野だけじゃなく遠くの県外にも足を延ばして
いる。ところがやっかいなのは、チケットがなかなか取れないこと
だった。抽選に外れることがたびたびで残念でならない。
そこで仲のいい友だちにもチケットを申し込みをお願いして、
何回か頼まれたことがある。
先日も頼まれたので、ポチっとしたところ、めでたく当選の知らせが
届いた。友だちにその旨を伝えたら、後日チケット代の支払いに来た
ときに、土産に立派な松茸を持ってきてくれた。
友だちの役に立つのは嬉しいこと。見返りなんか求めていない
けれど、思いがけないご褒美になんとも驚いてしまった。
早速その日の夜、ホイル焼きにしたところ、台所いっぱいに芳香な
香りが広がって、幸せな気分に包まれた。贅沢な晩酌のひとときに
感謝したことだった。
松茸や焼いて厚意の染みりつつ。
古い町のイベントで。
2024年11月05日
へこりと at 08:58
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霜月 2
長野市の古刹、善光寺から一キロほど通りを下った処に、
権堂アーケードが在る。飲食店や洋品店があり、若い頃は
昼間は買い物客で、夕方になればサラリーマンのおじさん
たちが好い酔いに酔っ払っておおいに賑わっていた。
老舗の料亭やチェーン店の居酒屋に、蕎麦屋に寿司屋に天ぷら屋、
どこも繁盛していたものだった。アーケードを入ったすぐの左手に
かつて「びくら」というレストランが在って、子供の頃にときどき
母に連れて行ってもらった。今のようにファミレスなどなかった
頃だから、この店のハンバーグは最高の贅沢だった。
長野オリンピックの賑わいを境に客足が減って、今では昼も夜も
客の姿が少なくなってしまった。それでもこの頃は観光客の姿を
ちらほら見かける。夕方になると、さて、どこの飲み屋で旨い酒を
飲もうかと、店を物色している外人さんがうろうろしているのだった。
そのアーケードをまっすぐ抜けていくと、古い飲み屋街の
西鶴賀が在り、さらにその先には、かつての色街だった東鶴賀が
在る。こちらも昔は賑わっていたものの、空き店舗が連なるように
なり、人通りが少ない。それでも今でも常連さんが頻繁に足を運んで
いる老舗の飲み屋が在り、面白いことに最近は、この古い町に店を
開く若いかたもいるのだった。
酒屋を営む友だちがいる。信州の酒を大勢のかたに知って頂き
たいと、毎年六月に長野駅前の飲食店と協力して、「酒とらっぷ」
というイベントを開いている。駅前の複数の飲み屋にそれぞれ
長野の酒蔵さんに滞在してもらい、酒を試飲しながら各店を回ると
いう催しだった。そのイベントがこのたび、権堂アーケードと西鶴賀、
東鶴賀で行われたのだった。
八つの店と十三の酒蔵さんが参加しての当日、杯を片手に多くの
酔客が店を巡り歩く。参加した店の中には、馴染みの店もいくつか
あって、やあやあご苦労様ですと、ねぎらいながら回っていく。
西鶴賀に東鶴賀は通りが狭い。この日はいつも駅前で参加している
飲み屋のご主人がたがボランティアで交通整理に励んでいた。
この界隈はまだ昭和の風情が残っている。それが逆に新鮮に見えるのか、
ここ最近平成生まれの若者が客として来るという。実際この日も
地元の大学に通っている若者たちと遭遇した。
若いかたがたに古い町に足繁く通っていただきたいことだった。
行く秋や昭和の町で杯重ね。
五九醸の酒を。
2024年11月01日
へこりと at 08:46
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霜月 1
毎晩日本酒を酌んでいる。いつまでも夏のような
陽気が続いたこの秋、この頃になってようやく
熱燗を欲する気分になってきたのだった。
長野県に「五九醸」というお蔵さんのユニットがある。
昭和五十九年生まれの、お蔵の跡取りたちの集まりで、
参加しているのは北光正宗を醸す角口酒造に、
勢い正宗を醸す丸世酒造に、本老いの松を醸す
東飯田酒造に、積善を醸す西飯田酒造に、福無量を
醸す沓掛酒造の五蔵だった。
結成を呼び掛けたのは、角口酒造の息子さんで、その
きっかけになったのは、日本酒の売り上げの落ち込み
だった。その昔は酒さえ造っていれば勝手に売れていた。
ところが日本酒を飲まない世代が増え、今までと同じことを
していては、ますます落ち込んでいく。単に品質を上げる
だけでは、売れ行きは伸びない。話題性のあることをして
日本酒に興味を持っていただきたい。そこで、同じ歳の
お蔵さんとユニットを組んで毎年日本酒をPRすることに
したのだった。結成したのは2014年。活動は十年間と
決めた。翌年から毎年テーマを決めてそれぞれの個性の
ある酒を発売して、宣伝のための大きなイベントを開催
するようになった。当初はイベントの準備や、お客さんへの
酒の説明など、慣れないことに戸惑っていたという。
そんな彼らを、酒屋や飲み屋、縁のある異業種のかたがたが
応援して、回を重ねるごとに知名度も上がっていき、
いつもイベント会場は多くのお客で賑わっていた。
2024年、雨降りの土曜日の夕方、自宅のそばのギャラリーへ
出かけた。今年で活動を終える五九醸の最後のイベントが
開かれたのだった。これまでの活動の様子が映像で流されて、
酒を酌みながらそのときどきを振り返る。十年間の活動の
記念に、それぞれの思いを語った本が出版された。
読んでみれば、それぞれ最初は不安だらけだったという。
みんなに置いて行かれないようにプレッシャーを感じながら、
造りをしていたという。ただ、五九醸の活動に刺激を受けて、
自らの造りの方向性が見えてきたと、みんなおっしゃっている。
この十年、どのお蔵さんも、素晴らしい味を醸すようになった
のだった。
十年間の活動は、この酔っ払いも楽しませていただきました。
ほんとにお疲れ様でした。
もう今期の造りの季節になる。それぞれ無事の造りが出来ます
ように。
新酒待つ無事の造りを願いつつ。
同期の仲間と。
2024年10月29日
へこりと at 10:31
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神無月 7
朝夕、自宅の前を近くの高校に通う子供たちが通っていく。
近ごろの子供たちは、男の子も女の子も見映えのする子が
多いなあと見惚れている。小顔できれいな顔つきで、すらっと
背丈もあってかっこよいのだった。
中にはしっかり日焼けをしている子もいて、運動頑張ってるねと
察しがつく。運動にしろ音楽にしろ、子供たちの健気に
頑張る姿は見ていて清々しい気持ちになることだった。
高校時代、陸上部に所属していた。
毎朝学校に着いたら、すぐそばの浅川の土手を
走りまわり、放課後になれば、東和田の運動公園まで
自転車を飛ばして、陸上競技場のトラックを走り
回っていた。そこそこ持久力があったから、もっぱら中長距離を
やっていて、1500mに5000m、駅伝をやっていた。
もうあれから四十年余り。
早朝のノルディックウォーキングで、ときどき運動公園の
陸上競技場まで歩いている。
競技場の芝生の匂いに触れると、今でも当時のことを思い
出すのだった。
先だって、外出先から帰ってきたら、固定電話の
ナンバーディスプレーに、見知らぬ番号の着信が入っていた。
誰だろうといぶかしながら折り返しの電話をしたら、
高校時代、共に走り回っていた陸上部の同期の友だちだった。
思いがけない連絡に、どうしたことかと思ったら、
陸上部の同期会を開こうと思う。ぜひ参加してくれと
いうのだった。同期だった仲間はぜんぶで十人。
短距離をしていたのが四人、中長距離は我が身を含めて三人に、
競歩がひとりに投てきが二人。懐かしい子供の頃の顔ぶれが、
次々と浮かんできた。それから日を置いた十月の祝日、
長野駅前の寿司屋に集まった。ほとんど高校を卒業して以来の
顔ぶれで、いやあ久しぶりの声が上がる。みんないいおっさんに
なったものの、子供の頃の面影が残っている。
杯を交わし、近況報告をしたり、思い出話にふけったり、
再会のひとときに気持ちが和んだ。
みんなで全力で挑んで、長野県大会で総合優勝を勝ち取ったなあ。
強かった、うん、強かったぞ。
最高の仲間に恵まれたことを、あらためて誇りに思ったのだった。
仲間との再会秋の夕べかな。

最後の演奏会に。
2024年10月25日
へこりと at 10:22
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神無月 6
自宅を出て、善光寺の仲見世の通りを横切って、
西之門町の通りを下っていくと、馴染みのイタリアンの
店が在る。
店が出来てほどなく通いだしたから、もう十五年の
付き合いになっている。食の細い身で、あまりたくさんの
料理が食べられない。いつもほど良い量のアラカルトを出して
もらっては、だらだらワインを飲んでいる。使い勝手の好い
店が近所に在るのは、まことにありがたいことだった。
その店のご主人夫婦の娘さんが、中学校で吹奏楽部に
入っている。今年三年生になり、この十月に最後の
定期演奏会があったのだった。まだお母さんのお腹の中にいた
ときから知っている。もう中学三年生かあ。子供の成長は早い
ものだなあ。
十月最初の土曜日、仕事をさぼってホクト文化ホールまで
聴きに出かけた。昼どき、長野駅の東口を出て会場に着くと、
入り口には親御さんやら孫の晴れ舞台を観に来た
年配のかたや、友だちと思われる子供たちが大勢いる。
折よく娘さんのお母さんと遭遇して、演奏ぶりの良く見える
席に落ちつけた。わが母校でもあるこの中学校の吹奏楽部は、
毎年コンクールで優秀な成績を収めている。久しぶりに
音色を耳に出来るのは楽しみなことだった。
ぜんぶで二十九名の子供たちがステージに現れて、
コンクールの課題曲に自由曲、ワーグナーの行進曲と続いて
いく。娘さんのフルートの音色を聴き逃さぬよう、真剣な
まなざしで演奏している姿を見ていたら、立派になったなあと、
その成長ぶりがしみじみ伝わってきた。休憩をはさんだ第二部では、
それぞれのパートの独奏があったり、これで引退する三年生だけの
演奏があり、途中、一年生の子供たちが三年生の面々に感謝の
気持ちを伝えたときには、娘さんが両手で顔を覆って泣きだし
ちゃって、おじさんもついもらい泣きをしてしまった。
第三部では、みなさんそろいの赤いTシャツに着替えて、ディズニー
メドレーを演奏したり、マツケンサンバを踊り手付きで演奏したり、
アンコールに答えてくれて、賑やかに締めくくったのだった。
子供たちの健気な澄んだ音色に触れられて、温かく清々しい気持ちを
頂いたことだった。
秋澄むや子等の音色の余韻かな。
信州の酒を。
2024年10月22日
へこりと at 08:43
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神無月 5
毎晩日本酒を酌んでいる。秋の風が冷たくなってきて、
今年も鍋で燗酒の季節となったのだった。
近ごろは地元信州の酒も旨い銘柄が増えて喜ばしいこと
だった。信州には、現在七十余りのお蔵さんが造りを
行っている。酒を造るだけでなく、日本酒のイベントも
一年を通じて開かれているのだった。
新酒や秋酒のころに、あちこちのお蔵さんが蔵開きをして、
一般の皆さんに酒をふるまったり、地酒に力を入れている
酒屋が、お蔵さんを招いて酒の会を開いたり、いくつかの
お蔵さんが集まって酒の会を開いたり、がんばって日本酒の
普及に励んでいる。長野県酒造組合が、毎年秋になると
長野駅前のホテルで、信州のお蔵さんを一堂に集めて酒の会を
開いている。この頃は、東京や大阪や札幌にも足を延ばして
会を開き、県外のかたにも宣伝しているのだった。
その長野県酒造組合のイベント、YOMOYAMA NAGANOが
この秋も開かれた。
夕方、仕事を早仕舞いして会場のホテルへ向かうと、酔客の
老若男女たちがぞろぞろと会場へ向かっている。受付を済ませて
早速酒を利いていく。それぞれのお蔵さんのブースがずらっと
並ぶ様は、眺めているだけでよだれが出そうになる。
そうは言っても、六十余りのブースを全部回っていたら
酔っ払って家路にたどり着けない。顔見知りのお蔵さんだけを
回って行った。
北光正宗、豊賀、幻舞、五岳、和田龍、亀齢、亀の海、月吉野、
北信流、十六代九朗右衛門、積善、本老いの松、互、勢正宗、
久しぶりにお会いするお蔵さんのかたがたは、みんな元気な
笑顔で迎えてくれて嬉しい。
勝手知ったる味だけど、こうして造り手本人と言葉を交わしながら
利く味は格別のものだった。
身の回りでは日本酒を好む若者が増えている感じがするけれど、
まだまだ需要は厳しいと聞く。こうして会場を埋めている酔っ払い
のかたがたが、足繁く飲み屋と酒屋に行って、おおいに日本酒の
杯を重ねてくれればと願ってしまうのだった。
そろそろ今期の造りの季節になる。お蔵さんの皆さんが、無事の
造りに入れますように。
利酒や個々のお蔵の旨さかな。
懐かしい店が。
2024年10月18日
へこりと at 09:03
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神無月 4
二十代のとき、長野電鉄の本郷駅からほど近いアパートに
住んでいた。目の前に葡萄畑が広がって、その向こうには
長野女子短期大学が在って、昼休みになると子供たちの
賑やかな声が聞こえてきた。
ちょうど酒の味に目覚めた頃で、県内外のいろんな銘柄に手を
付けはじめた頃だった。県外の銘柄には気に入りが出来た
ものの、残念ながら身近で手に入る県内の銘柄にはがっかり
してばかりだった。
そんなある日、アパートから五分ほど北へ上がった場所に在る、
山とも庵という蕎麦屋へ初めて行ったのだった。
暖簾をくぐると四人掛けのテーブル席がいくつかと、その奥に
座敷があって、座卓がいくつか。昔ながらの蕎麦屋の風情の
店だった。ビールを空けた後に、長野の佐久の菊秀という酒を
頼んだら、これが旨かったのだった。
やっと旨い地酒に会えました。店のご主人に扱っている酒屋を
教えてもらい、早速買いに行った。
あの頃は、蕎麦屋といえばもっぱら山とも庵ばかりで、
ちょっとした肴で菊秀を酌んでいた。山とも庵との出会いが
蕎麦屋の昼酒を始めるきっかけになったのだった。通い始めて
何年かして、店がリフォームされてきれいになった。
嬉しいのは、日本酒の銘柄ががいくつか増えたことで、
ふつうにお酒と頼むと静岡の銘酒、開運の純米酒が出てくる。
同じようにこの店を贔屓にしている友だちがいて、ときどき
一緒に昼酒に伺っていた。この店で飲む越後の〆張鶴の
純米吟醸は、なぜかことのほか旨く感じるのおと言い合った
ものだった。それからしばらくして、善光寺門前に自宅兼
仕事場を建ててからは、足が遠のいてしまった。
いちど久しぶりに伺ったら、休店日がいつの間にかこちらの
休日と同じになっていて入れなかった。
以来足を向けることがなくなったのだった。
先日、友だちからメールが来た。
山とも庵が十月いっぱいで閉店するとの知らせだった。
そうかあ、閉店かあ。もう何年も通っていなかったのに寂しい
気持ちになってしまった。
ご主人も奥さんも、とても愛想の好いかたで、いつも気持ちの
好いひとときを過ごさせていただいた。
蕎麦屋の昼酒の楽しさを教えていただいて、ほんとにありがたい
ことだった。閉店する前に、感謝の気持ちを込めて再訪を
したことだった。
惜別の〆張鶴や秋の昼。
七尾まで。
2024年10月15日
へこりと at 09:09
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神無月 3
石川県の七尾市へ出かけた。新幹線のかがやきで
金沢まで行って、和倉温泉行きの特急に乗り換えて、
七尾駅で降りる。金沢に大学時代の友だちがいて、
七尾で生まれ育ったかただった。その縁で、二十代の頃
一度足を運んだことがあり、それ以来の七尾詣でだった。
駅前からの大きな通りをゆっくり歩いていくと、
人の姿が見当たらず、静かな港町の風情が漂っている。
潮の香りにつられて港まで来ると、すぐそばに、食品会社の
スギヨの社屋が在った。長野県民にとって、昔からスギヨは
縁が深い。
ここのビタミンちくわという商品は、製造量の七割が長野県で
消費されているのだった。正月の地震で被災したときは、
長野からたくさんの応援メッセージが届いたという。
製造を再開出来たときは、スギヨの社員がわざわざ長野の
スーパーまで店頭販売に来てくれた。七尾のちくわなのに
長野県のソールフードなのだった。
海沿いの道の駅の食堂街に、海鮮丼の店が在ったから行って
みたら、あいにく休みでふられた。
開いていたのはラーメン屋と洋食屋だけで、しばし迷って
洋食屋の戸を開けた。能登牛のハンバーグをつまみに、
一番搾りと角ハイボールを飲んで外に出れば、目の前に
穏やかな海が広がっている。地震のとき、この海がどれだけ
荒れたのか想像がつかないのだった。
あてもなく町の中を徘徊していると、屋根や壁にブルーシートが
かかっているお宅や、重機で解体されているお宅をあちこちに
見掛ける。被災したまま手つかずで残っているお宅も在って、
住んでいたかたはもうこの地に戻ってこないかもしれないと、
崩れた家屋に気持ちがふさいだ。駅前のホテルにチェックインを
して、目の前の飲み屋に入る。イカ納豆をつまみに地酒の
ほまれを飲めば、能登の酒の重い味わいがふさいだ気持ちに
染みて来る。
店の女将さんの話を聞けば、能登の観光を担っていた和倉温泉の
復旧がまったく進んでいないというのだった。
みんな生活が懸かっている。女将さんも以前は和倉温泉で
働いていた。とても生活のめどが立たないからと、七尾に
来て、この店に勤めたというのだった。
どうにかならないものかねえ。被災地の様子をわずかばかり
目にしただけで、事態の重さが伝わってきたのだった。
潮香る七尾の秋の静けさや。