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上田でひととき。

2025年01月31日

 へこりと at 11:31  | Comments(4)

睦月 6

休日、新幹線に乗って,缶酎ハイを飲みながら上田へ
出かけた。日々暮らしている長野市の善光寺界隈は、
年が明けて日が経つというのに、今だに観光客が
わさわさと来ていて賑やかしい。こうして小さな城下町に
降り立つと、穏やかな静けさにほっとするのだった。
上田市立美術館で開催している、「ハッケン上田の仏像展」
を観に行った。
上田の町を歩いていると、先々にりっぱな古刹が多い。
遭遇すると、宗派を問わずおじゃまして、上田の町が平和で
ありますよう祈っている。
そんなお寺の仏像をお披露目してくれる企画展なのだった。
ひとつひとつ、昔の仏像を観ていると、静かな佇まいに
気持ちが落ち着いた。お寺を訪ねても、普段はお目にかかれ
ないから、貴重な企画に感謝をした。
美術館を出て向かいの上田アリオの中に入っていくと、長年
営業していたスーパーのイトーヨーカドーが閉店していた。
いつもお客で賑わっていたのに、来るたびに見慣れた景色が
なくなって、寂しいことだった。
そのまま駅前の通りを上がって、この日のランチはフレンチの
「ル・カドル」と決めていた。
広い店内に、四人掛けのテーブルが三つに、小さなカウンター。
ゆったりとした空間が好い。
御主人は、たまたま上田に来たところ、町の風情が気に入って、
移住して店を始めたかただった。寡黙な御主人で、この店に
通いだして八年になるのに、御主人と言葉を交わしたのは、
おそらく十秒にも満たない。カウンターから厨房を眺めていると、
丁寧に料理を作る姿だけで酒が進むのだった。
奥さんは北海道の厚岸で生まれ育ったかたで、この日は、
厚岸蒸留所のウイスキーを利きながら、スズキのポワレを堪能
した。年末から年明けにかけて、私用で気持ちの落ち着かない
日が続いていた。
こうして美味しい料理と酒にゆっくり満たされると、元気が出て
くる。贅沢だけど大事な時間。つくづく感じたのだった。
酔い好いで御主人夫婦にお礼を述べて店を出て、ちょいと先の
呉服店の「ゆたかや」におじゃました。
二年前に浴衣を作って頂いた。暗めの落ち着いた柄の浴衣で、
もうひとつ、逆に明るめの柄の浴衣も欲しいなあと思っていたの
だった。浴衣の反物が入荷したら連絡をください。お願いして店を
出た。
冬最中、早々に夏の楽しみを作ったことだった。

潮香る厚岸の酒冬うらら。




  


CMどおりにいかなくて。

2025年01月28日

 へこりと at 08:34  | Comments(4)

睦月 5

六歳離れた兄は、三歳の頃からピアノを弾いている。
中学生のときは合唱部で伴奏をして、仲間の歌声を
引き出していた。高校生のときは仲間とバンドを組んで、
あちこちのコンテストに出場して、井上陽水やら吉田拓郎
やらを歌っていた。音楽に夢中で勉強もせず、やさぐれていた
毎日で、酒とたばこと女に手を出して、ずいぶんと親に心配と
迷惑をかけていた。東京の音楽大学に進学したものの、ここでも
学業に不熱心で中退してしまい、縁あって知り合ったかたに誘わ
れて函館に移住して、現在は、ピアノ教室をやったり、函館で
いちばん高級なクラブで弾いている。コロナ禍になり、
ピアノ教室の生徒もクラブのお客も来なくなり、大変な思いを
していたのだった。そんな兄が使っていたアップライトピアノが
実家に有る。テレビを観ていると、ピアノ高く買い取りますの
CMをよく目にする。実家もいずれ処分することだし、小遣い稼ぎに
なればと、売ることにしたのだった。買い取り会社に予約を入れた
当日、訪ねてきた業者にピアノを見てもらったら、これは買取でき
ないと、申し訳なさそうに言われた。
兄のピアノは犬とラッパのマークのビクターの製品で、六十年以上の
月日が経っている。ヤマハかカワイじゃないと価値がなく、
こんなに古くては修理代に莫大な費用がかかると言われてしまった。
おまけにピアノのような複雑な代物は、廃棄物業者も引き取ってくれ
ないとのことで、小遣い稼ぎどころか、逆にお金を払って処分をお願い
する羽目になってしまった。
日を置いた別の日、実家にたくさん残された、母の着物を売ることに
した。一枚一枚たとう紙を開いてみれば、素人目にも高級なものばかり
とわかる。買い取り業者に着物を見てもらったら、
買い取れるのは高価な訪問着や帯などで、普段着の紬などは買い取れ
ないと言われてしまった。数ある中から微々たる金額で売れたのはほんの
一部だけだった。
お茶やお花をたしなみ、着物を着る知人もいるけれど、着物は着るかたの
背丈や体形に合わせて作るから、小柄だった母の着物を譲ることもでき
ない。CMどおりにいかんではないか。気分がへこんだことだった。

底冷えや音色空しきピアノかな。





  


冬の痛みに。

2025年01月24日

 へこりと at 12:34  | Comments(2)

睦月 4

年明けて寒い日が続いている。朝の気温が氷点下の日が続き、
目覚めて布団から這い出るのが、まことに難儀なことだった。
それでもありがたいのは、長野市街地は今のところ大雪に
見舞われていないことだった。
降ってもうっすらと道路に積もる程度で、天気が回復すれば
すぐに融けてくれるから雪かきの手間がないのだった。
夜中から早朝にさんさんと雪が降ると、自宅の向かいのお宅の
奥さんと隣のお宅の奥さんは、五時前からせっせと雪かきを
始める。がりがりと雪かきの音で目が覚めて、慌てて二日酔いの
寝ぼけた頭で外に出れば、すっかり目の前の路地の雪が両脇に
片付けられている。お二人とも高齢だから、こちらが率先して
しなきゃいけないのにと、そのたびに恐縮していたのだった。
この頃は雪かきの音が聞こえても、すっかり慣れて、二度寝を
決め込んでいる有様だった。
冬場につらいのは、体が不調をきたすことだった。生まれつき、
左の膝の骨の裏側にかすかなひびがある。
中学生のときにバスケをやっていて、高校では陸上をやっていた。
練習に明け暮れて疲れがたまると痛みが出て医者通いをしていた。
この歳になって激しい運動をしているわけでもないのに、寒さ厳しい
折りはじんじんと痛くなるのだった。
三十年余り前に交通事故にあって、あごの骨を骨折してチタンの
プレートで繋いである。寒くなるとそこにも痛みが出て、口を動かす
のがつらい。持病の坐骨神経痛も冬場になると痛みが増す。
仕事を終えた夕方、熱い湯にゆっくり浸かり温めると痛みが幾分和らぐ
ものの、朝になればもとの痛みが戻っている。
先日、布団をたたもうとかがんだら、腰の左側にずきっと
痛みが走った。あまりの痛さにそのまま動けなくなって再び布団に
突っ伏した。持病の坐骨神経痛の痛さなどかわいいものと思えるほどで、
そんな日に限って仕事の予定が入っているのだった。
痛みをこらえて仕事をしていたら、脂汗が出てくる。なんとかこなして
友だちの営む整骨院へ行こうと思ったものの、とてもじゃないが痛すぎて
動けない。翌日仕事を休んで翌々日に伺ったら、あ~、ぎっくり腰だねえ
と言われた。
治療をしてもらいながら、しばらくはおとなしくしててくださいと、
くぎを刺されてしまった。
馴染みの飲み屋へ行くことも出来ず、しょんぼりと家飲みの日が続くの
だった。

冬の雨腰の痛みはまだ続き。


  


1月21日の記事

2025年01月21日

 へこりと at 13:34  | Comments(2)

睦月 3

長野から新幹線で十五分、上田の町が好きでたびたび
訪れている。以前は駅前の東横インに泊まっていたものの、
上田に暮らす友だちを通じて、安いマンションを買うことが
できた。築四十年のおんぼろだけど、時間を気にせず落ちつける
別宅が出来たのは嬉しいことだった。
上田へ来てもこれと言って何かするわけでもなく、あてもなく
町なかをぶらぶらして、城跡公園の桜を眺めたり欅並木を眺めたり、
ときどき上田電鉄の別所線に揺られて三十分、別所温泉まで足を
延ばして、柔らかな湯に癒されることもある。
通い始めて十年余り。馴染みの蕎麦屋に寿司屋に飲み屋に洋食屋も
出来て、昼酒夜酒を楽しんでいる。仕事を引退したら、身の回りの
最小限の物だけ持って上田で暮らそうか、そんなことも考えている。
そう思えるほど、まことに風情の穏やかな好い町なのだった。
年明け初めての上田詣でに出かけた。
駅を出たその足で甲田理髪店に立ち寄って、ぼさぼさの髪をさっぱり
切ってもらう。別宅に荷物を置いて、住宅街の通りを上がって行って、
飲み屋の「かぎや」の暖簾をくぐる。ご両親と息子夫婦で営むこの店は、
温かな客あしらいが好く、いつも地元の客で賑わっている。
今年もよろしくお願いしますと、手土産の菓子を渡してカウンターに
落ちついた。いいちこのロックをゆるゆるとやっていたら、御厚意で
地酒の亀齢の純米を出してくれた。新年最初の上田飲みに気持ちよく
酔ったのだった。
翌朝、東宝シネマズ上田へ出向いて、キムタク主演の「グランメゾン
パリ」を観た。六年前にTBSの日曜劇場で、「グランメゾン東京」
というフレンチレストランのシェフたちを描いたドラマを放送して
いた。
今回は同じ仲間たちで舞台をパリに移しての作品だった。
臨場感いっぱいの、キムタク演じる尾花夏樹とその仲間たちが料理を
作る場面に、なんともそそられてしまった。
映画を観終えたら、上田のフレンチレストラン、「ル・カドル」に
行きたくなった。
寡黙な料理人の御主人と、ソムリエのきれいな奥さんが営むこの店は、
料理も接客も佇まいも好く、ときどきおじゃまをしているのだった。
ずいぶんご無沙汰していたなあと思い出し、来週ランチに伺います。
早速予約を入れたことだった。

冴ゆる夜の馴染みの店の地酒かな。




  


巳の年を迎えて。

2025年01月17日

 へこりと at 12:04  | Comments(2)

睦月 2

巳の年を迎えた。年明けの善光寺は、恐ろしいくらいの
参拝客で埋め尽くされた。正月に賑わうのは恒例だけど、
今年は人出がすさまじく、年明けて一週間を過ぎても、
今までよりも多くの参拝客が来ているのだった。
年末に母が亡くなって、通夜や葬儀でばたばたとしていた。
駆けつけてきた兄夫婦と甥っ子夫婦が大晦日の日に
それぞれ帰っていって、ひとりで茶の間の母の遺影を眺めて
いたら、なんだか気力が抜けてしまった。
紅白歌合戦を観ながら白菜と大根の鍋で今年最後の酒を
酌んでいたら、いつの間にかつぶれて、目が覚めたときには
すでに新年になっていた。忌中が明けるまでは神社と寺にも
お参りをしてはいけない。この三が日も自宅でおとなしく。
新しいしめ縄のない台所の神棚が、なんだか間が抜けたよう
だった。
初湯に入り、母の遺影に線香をあげて、全国実業団駅伝を
観ながら油揚げと大根の鍋で新年最初の酒を酌んだ。昨夜の
酒がまだ抜けていなかったのか、旭化成がゴールテープを切る
前につぶれた。
翌朝、箱根駅伝を観ながら豆腐とネギの鍋で、エビスの栓を
抜く。箱根駅伝はサッポロがスポンサーだから、サッポロを
飲まないといけないのだった。二日と三日、白熱したレースを
観ながらよくよく飲んだことだった。
新年最初の定休日、実家に向かった。車庫に山積みになった
不用品を処分してもらうために、産廃業者に見積もりに来て
もらったのだった。この量だから安くはないだろうとは思って
いたものの、結構な金額を言われびびった。その足で
葬儀屋への支払いに銀行へ行った。新年早々多額の出費に、
新年早々暮らしへの不安がつのってしまった。
帰り道、善光寺仲見世の仏壇屋に寄って、母の位牌の作成を
お願いした。今日一日の予定を終えてぶらぶら通りを下り、
今年最初の蕎麦屋の昼酒に、「かんだた」の暖簾をくぐった。
御主人と女将さんと新年のあいさつを交わし、とり皮の旨煮で
ビールを一本に燗酒を二本。ゆるゆると酌んでいれば、次から
次へとお客が入って来る。外人のお客も多く、酌みながら
横目で眺めれば、どの外人さんも箸の使い方が上手で感心した。
会計のときに、美味しかったですと言われるお客が続いて、
馴染みの店の味が褒められるのは、こちらも嬉しいことだった。
どんな一年になるのか。先の不安は尽きないけれど、ちびちび
酒を酌みながら、淡々と過ごしていきたいものだった。

異人客多し蕎麦屋の熱燗を。




  


母を見送って。

2025年01月10日

 へこりと at 08:55  | Comments(2)

睦月 1

年末に母が亡くなった。入居している介護施設で
コロナにかかってしまったのだった。肺炎を発症して、
救急車で大きな病院に運ばれた。検査をしたところ、
肺と心臓がだいぶ弱っている。早ければ今週いっぱい
もたないでしょうと、担当のお医者に言われてしまった。
翌日には意識を失って、酸素吸入と点滴で持ちこたえていた
ものの、一週間目に容体が悪化して逝ってしまった。
函館に暮らす兄夫婦と東京に暮らす甥っ子夫婦、母と
親しかったかたがたに連絡をして、通夜と告別式を執り行った。
告別式が済んでも気の毒なのは兄夫婦で、年末の帰省ラッシュに
引っかかり、函館行きの新幹線も飛行機も切符が取れず、
大晦日まで足止めを食ってしまったのだった。
その間、甥っ子夫婦共々、空き家になっている実家の片づけを
してくれた。母が施設に入ってから、ときどき不用品を片付けて
いたものの、いかんせん物が多すぎて全然片付かない。
昔の人はなんでこう物をためたがるのかなあ。実家に行くたびに
ため息をついていた。足止めを食らった三日間で、ずいぶんな片づけを
してくれて、助かったことだった。
二十二歳のときに函館に移住をして四十年余り、両親との縁が薄くなった。八年前に父が他界したときに帰って来たのが十五年ぶりのことで、
この度の帰省もそれ以来のことだった。年老いた両親の面倒はすっかり
こちら任せで、実家の片づけは、そんな弟への罪滅ぼしかもしれなかった。
母は東京の美容学校を卒業して、昭和三十年の二十三歳のときに善光寺
門前、東之門町に店を開いた。東京の美容学校に行く人など稀な時代で、
朝の五時からお客が列を成していたという。お弟子さんを雇って、
ばんばん働いて、当時のサラリーマンの何倍も稼いでいた。そしてよく
遊んだ母だった。お弟子さんや友だちを連れて高級な料理屋に行ったり、
あちこち旅行にに出かけたり。宝石や着物や洋服にためらいなく
散財をしていた。兄たちが片付けていたら、未使用のハンドバッグや
洋服がいくつも出てきたという。あんまり散財ばかりしていたから、
買ったことすら忘れていたのだった。
実家から持ち帰った古いアルバムを開いたら、知らなかった頃の若くて
おしゃれできれいな母の姿があった。
全力で生き抜いた人生だったねと、しみじみ眺めたことだった。

真夜中の病院去りぬ冬の月。