温泉まで連れ立って
睦月 十七
たまには温泉でも行きたいねえ。
そんな話がまとまって、
飲み仲間の蕎麦屋の旦那と、居酒屋の御主人と
上山田温泉まで出かけた。
日曜日、仕事を一時間早く切り上げて
蕎麦屋の旦那の車で向かう。
泊まりで温泉へ行くのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
やもめ男が三人で連れ立っていくのも
中年のわびしさがあってよい。
雪のそぼ降る上山田の町を行けば
以前世話になったねずみやさんは
廃業したまま建物だけが残っている。
更地になったところもあって、
ぽちぽち見える観光客の姿も
盛りをすぎた温泉街のすきまを、よけいに感じさせている。
お世話になるのは菊水さん。
よろしくお願いしますと部屋へ向かえば
大きな建物のあつらいに、景気が良かったころの
なごりがある。
夕飯前にひと風呂浴びれば、
ぬるめのお湯が肌にやわらかく、気持ちもほっとゆるくなる。
宴の席へ行けば、年輩のご夫婦や友達同士の団体さんが
すでに一献始めていた。
格安プランでお願いしたから、もとより料理に期待はしていなかった。
それでもプロの料理人ふたりには
素人にはわからない手間さばきが見える。
この仕込には手間がかかっている。
盛り付けに工夫のあとがある。
がんばってるなあと、
厨房の同業者の労をねぎらう言葉が出るのだった。
腹もいっぱいになったら部屋に戻り、
布団でごろごろしながら真澄の吟醸をちびちびなめくつろいだ。
飲み屋の御主人は、あと半年もしたら他の場所に移って
商売をしたいという。
具体的なことを決めながら、これからはもっと
ストレスを抱えないかたちで商売をしたいという。
蕎麦屋の旦那の目下の悩みは
身近な人との関わりのことで、けんかをしたまま仲直りできず、
気持ちがおもくなっている。
思いもよらないことでいさかいになっってばかりでさあといえば、
男というのはわきの甘い生き物だからなあと
飲み屋の御主人がしみじみという。
心にひっかかる悔いごとや悩みごとを話していれば
なかなか寝る気にもならず、
真澄一本空にして、車の中にワインがあったと
蕎麦屋の旦那が持ってきた。
やもめ男のわびしい一献に拍車のかかる夜だった。

たまには温泉でも行きたいねえ。
そんな話がまとまって、
飲み仲間の蕎麦屋の旦那と、居酒屋の御主人と
上山田温泉まで出かけた。
日曜日、仕事を一時間早く切り上げて
蕎麦屋の旦那の車で向かう。
泊まりで温泉へ行くのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
やもめ男が三人で連れ立っていくのも
中年のわびしさがあってよい。
雪のそぼ降る上山田の町を行けば
以前世話になったねずみやさんは
廃業したまま建物だけが残っている。
更地になったところもあって、
ぽちぽち見える観光客の姿も
盛りをすぎた温泉街のすきまを、よけいに感じさせている。
お世話になるのは菊水さん。
よろしくお願いしますと部屋へ向かえば
大きな建物のあつらいに、景気が良かったころの
なごりがある。
夕飯前にひと風呂浴びれば、
ぬるめのお湯が肌にやわらかく、気持ちもほっとゆるくなる。
宴の席へ行けば、年輩のご夫婦や友達同士の団体さんが
すでに一献始めていた。
格安プランでお願いしたから、もとより料理に期待はしていなかった。
それでもプロの料理人ふたりには
素人にはわからない手間さばきが見える。
この仕込には手間がかかっている。
盛り付けに工夫のあとがある。
がんばってるなあと、
厨房の同業者の労をねぎらう言葉が出るのだった。
腹もいっぱいになったら部屋に戻り、
布団でごろごろしながら真澄の吟醸をちびちびなめくつろいだ。
飲み屋の御主人は、あと半年もしたら他の場所に移って
商売をしたいという。
具体的なことを決めながら、これからはもっと
ストレスを抱えないかたちで商売をしたいという。
蕎麦屋の旦那の目下の悩みは
身近な人との関わりのことで、けんかをしたまま仲直りできず、
気持ちがおもくなっている。
思いもよらないことでいさかいになっってばかりでさあといえば、
男というのはわきの甘い生き物だからなあと
飲み屋の御主人がしみじみという。
心にひっかかる悔いごとや悩みごとを話していれば
なかなか寝る気にもならず、
真澄一本空にして、車の中にワインがあったと
蕎麦屋の旦那が持ってきた。
やもめ男のわびしい一献に拍車のかかる夜だった。

向き合い方
睦月 十六
近所に料理屋が出来た。
昔、砂糖の卸し問屋だった古くて大きい蔵がある。
あちこちで居酒屋を経営している会社が
内装きれいにあらためて開いたのだった。
入り口に大きな年代物の壷が置いてあり、
奥へと石畳がつづいている。
先日、母が友達と誘い合って
ランチに行ってきたという。
お昼の少しおそい時間にうかがったら、
すでにランチのメニューが終わってしまったという。
ランチより値がはるが、鳥鍋のコースなら出来るといわれ
ではそれでとお願いして、お昼のひとときを過ごしてきた。
部屋に通してもらえば、
かつての大店の面影があり趣きがある。
料理も美味しく、量もあり、お腹がいっぱいになった。
お昼の営業おわるころ、
りっぱな睫毛をつけた茶髪のお姉さんがやってきて、
そろそろ店じまいの時間だから、先にお会計をお願いしますと、
食べている途中で支払いを催促されたといい、
早く帰ってくださいといわれているみたいで
あおられて、さいごにしらけちゃったとのことだった。
馴染みのひ魯ひ魯さんで飲んでいたら
着物姿の男の方が入ってきた。
坊主頭の体格のいい人で、
針医者・藤枝梅安さんの役が似合いそうとながめた。
いつものように作務衣の上に羽織を引っ掛けた格好で
カウンターで飲んでいたら、
いつもその格好なんですかと尋ねてきた。
呉服屋さんの若社長さんとのことで
着物が似合うのも合点がいったのだった。
飲みながら話をすれば、
例にもれず、呉服屋さんも商売が大変だという。
こういうときこそ肝心なのは接客の在り方で、
呉服屋さんのお得意さんには年輩の方が多い。
呉服屋という仕事柄に、違和感持たれるような身なりをせず、
相手の身になって向き合うように、
それを心がけたいという。
この店に足を運ぶのも、店の方の感じが良いからと
カウンターの向こうに目をやるから
同感ですとうなずいた。
わきの甘い人柄は、なおざりな向き合い方をしては
悔いを残してきたことがある。
身の回りの良い手本、わるい手本、
他人事と思わぬように気を入れたいものと思う。
近所に料理屋が出来た。
昔、砂糖の卸し問屋だった古くて大きい蔵がある。
あちこちで居酒屋を経営している会社が
内装きれいにあらためて開いたのだった。
入り口に大きな年代物の壷が置いてあり、
奥へと石畳がつづいている。
先日、母が友達と誘い合って
ランチに行ってきたという。
お昼の少しおそい時間にうかがったら、
すでにランチのメニューが終わってしまったという。
ランチより値がはるが、鳥鍋のコースなら出来るといわれ
ではそれでとお願いして、お昼のひとときを過ごしてきた。
部屋に通してもらえば、
かつての大店の面影があり趣きがある。
料理も美味しく、量もあり、お腹がいっぱいになった。
お昼の営業おわるころ、
りっぱな睫毛をつけた茶髪のお姉さんがやってきて、
そろそろ店じまいの時間だから、先にお会計をお願いしますと、
食べている途中で支払いを催促されたといい、
早く帰ってくださいといわれているみたいで
あおられて、さいごにしらけちゃったとのことだった。
馴染みのひ魯ひ魯さんで飲んでいたら
着物姿の男の方が入ってきた。
坊主頭の体格のいい人で、
針医者・藤枝梅安さんの役が似合いそうとながめた。
いつものように作務衣の上に羽織を引っ掛けた格好で
カウンターで飲んでいたら、
いつもその格好なんですかと尋ねてきた。
呉服屋さんの若社長さんとのことで
着物が似合うのも合点がいったのだった。
飲みながら話をすれば、
例にもれず、呉服屋さんも商売が大変だという。
こういうときこそ肝心なのは接客の在り方で、
呉服屋さんのお得意さんには年輩の方が多い。
呉服屋という仕事柄に、違和感持たれるような身なりをせず、
相手の身になって向き合うように、
それを心がけたいという。
この店に足を運ぶのも、店の方の感じが良いからと
カウンターの向こうに目をやるから
同感ですとうなずいた。
わきの甘い人柄は、なおざりな向き合い方をしては
悔いを残してきたことがある。
身の回りの良い手本、わるい手本、
他人事と思わぬように気を入れたいものと思う。
初めての店にて
睦月 十五
やまぐち君が訪ねてきた。
ワインを仕入れたので一緒に飲みましょうと
三本持って来てくれた。
長年あちこちのホテルで
サービスの仕事に携わっている。
つい最近まで勤めていた
市内のホテルを退社したところだという。
近所に住んでいる花屋の若旦那にも声をかけて
三人で家飲みと相成った。
持って来てくれたワインは、
どれもフランス産のずいぶん高価な物で
恐縮しながら深い味に酔いしれた。
またホテルに勤め始めれば、
なかなか一緒に飲めなくなる。
近いうちにまた飲み会でもという話しになる。
勤めていたホテルから家へ帰る道沿いに
ときどき立ち寄る店があるという。
料理の品数は少ないが、
店の方の感じが良いのと、値段の安いのがいいという。
ではそこでということに決まり、
週末、花屋の若旦那と連れ立って出かけた。
飲み友達それぞれに、行きつけの店がある。
たまにはふだんのテリトリーはなれ、
友達の場所で過ごすのもおもしろい。
市役所を南に下り、
愛和病院の四つ角を左に曲がったバイク屋のとなり
やまぐち君行きつけの ペーパームーンがある。
ゆっくりジャズの流れる店内は
木の壁や石だたみの床に年季がうかがえる。
尋ねれば、昭和五十七年の開店だから
もう二十八年になる。
店の御主人はジャズマンで、ベースを弾いている。
壁にライブを知らせるチラシが貼ってある。
最初、ビールは一番搾りだったのに
やまぐち君がスーパードライが好きだとわかったら
それから店のビールを換えてくれたのだという。
当たりの好いママさんの手料理をつまみに
スーパードライを飲み、芋焼酎のボトルも入れた。
この日も赤ワイン一本、やまぐち君が持ち込みさせてもらい、
これまたふくざつなめらかな味わいで、
後味のいい余韻がつづく。
ひと月に立て続けに高級ワインを酌んだのは
年明け早々いちばんのぜいたくで、やまぐち君に感謝する。
春ごろに雲上殿の高台に結婚式場が出来るという。
今度はそこに勤めようかと思うとのこと、
いそがしくなる前に、ワインのお礼に
旨い日本酒でもごちそうしたい。

やまぐち君が訪ねてきた。
ワインを仕入れたので一緒に飲みましょうと
三本持って来てくれた。
長年あちこちのホテルで
サービスの仕事に携わっている。
つい最近まで勤めていた
市内のホテルを退社したところだという。
近所に住んでいる花屋の若旦那にも声をかけて
三人で家飲みと相成った。
持って来てくれたワインは、
どれもフランス産のずいぶん高価な物で
恐縮しながら深い味に酔いしれた。
またホテルに勤め始めれば、
なかなか一緒に飲めなくなる。
近いうちにまた飲み会でもという話しになる。
勤めていたホテルから家へ帰る道沿いに
ときどき立ち寄る店があるという。
料理の品数は少ないが、
店の方の感じが良いのと、値段の安いのがいいという。
ではそこでということに決まり、
週末、花屋の若旦那と連れ立って出かけた。
飲み友達それぞれに、行きつけの店がある。
たまにはふだんのテリトリーはなれ、
友達の場所で過ごすのもおもしろい。
市役所を南に下り、
愛和病院の四つ角を左に曲がったバイク屋のとなり
やまぐち君行きつけの ペーパームーンがある。
ゆっくりジャズの流れる店内は
木の壁や石だたみの床に年季がうかがえる。
尋ねれば、昭和五十七年の開店だから
もう二十八年になる。
店の御主人はジャズマンで、ベースを弾いている。
壁にライブを知らせるチラシが貼ってある。
最初、ビールは一番搾りだったのに
やまぐち君がスーパードライが好きだとわかったら
それから店のビールを換えてくれたのだという。
当たりの好いママさんの手料理をつまみに
スーパードライを飲み、芋焼酎のボトルも入れた。
この日も赤ワイン一本、やまぐち君が持ち込みさせてもらい、
これまたふくざつなめらかな味わいで、
後味のいい余韻がつづく。
ひと月に立て続けに高級ワインを酌んだのは
年明け早々いちばんのぜいたくで、やまぐち君に感謝する。
春ごろに雲上殿の高台に結婚式場が出来るという。
今度はそこに勤めようかと思うとのこと、
いそがしくなる前に、ワインのお礼に
旨い日本酒でもごちそうしたい。

心機一転で
睦月 十四
西ノ宮神社で初恵比寿があった。
十九、二十日の二日間、
今年の商売繁盛を願う、たくさんの人が訪れる。
住んでいる町がこの神社の氏子になっている。
二十日の朝早く手伝いに出かければ
七時前から、お種銭をもらう人や
福引きを引く人の長い列が出来ていた。
神社の周りでは縁起物を売る屋台のおじさんたちが
白い息を吐きながら開店の準備をいそいでいる。
神社の入り口では、だるまやしめ縄にお札、
去年の縁起物を焚いている。
福引き券を配りながらときどき暖をとっていれば、
白い煙の立ち上る、マイナス七度の空が
今日も寒々としている。
飲み仲間のひろみちゃんが仕事をやめた。
住んでいる町から歩いて五分。
蔵造りの店の集まるひと角にカフェがある。
長い間この店の店長として店を切り盛りしていたのに
このたび勤めをやめることになりました。
突然のメールが来ておどろく。
なにがあったのかと、忘年会の席で
みんなで顔つき合わせて話を聞けば、
組織で働くむずかしさや、
人付き合いのむずかしさがあり、
もうそんなにがまんしなくてもと思えるところもあり
無理もないとうなづいたのだった。
年が明けて二十日の初恵比寿の夜、
ひろみちゃんの最後の勤めの日、
飲み仲間みんなで集まろうとメールが来る。
退社祝いのワインを手ぬぐいでくるんで抱えて
足を運んだ。
飲み仲間みんなでテーブルひとつ陣取って、
カウンターの向こうのひろみちゃんの労をねぎらい
乾杯する。
みんなのたまり場だったから、
ひろみちゃんがいなくなれば、ここで飲むこともなくなると、
そんなことを思いながら、生ビールと白ワインを飲んで
竹鶴をちびちびストレートで味わった。
仕事をやめたら住んでいる貸家も引き払って、
実家のある山の町に戻るという。
寒いあいだ、ゆっくり身の回りの始末をして
暖かくなるころ、心機一転の道を歩いてゆければと思う。

西ノ宮神社で初恵比寿があった。
十九、二十日の二日間、
今年の商売繁盛を願う、たくさんの人が訪れる。
住んでいる町がこの神社の氏子になっている。
二十日の朝早く手伝いに出かければ
七時前から、お種銭をもらう人や
福引きを引く人の長い列が出来ていた。
神社の周りでは縁起物を売る屋台のおじさんたちが
白い息を吐きながら開店の準備をいそいでいる。
神社の入り口では、だるまやしめ縄にお札、
去年の縁起物を焚いている。
福引き券を配りながらときどき暖をとっていれば、
白い煙の立ち上る、マイナス七度の空が
今日も寒々としている。
飲み仲間のひろみちゃんが仕事をやめた。
住んでいる町から歩いて五分。
蔵造りの店の集まるひと角にカフェがある。
長い間この店の店長として店を切り盛りしていたのに
このたび勤めをやめることになりました。
突然のメールが来ておどろく。
なにがあったのかと、忘年会の席で
みんなで顔つき合わせて話を聞けば、
組織で働くむずかしさや、
人付き合いのむずかしさがあり、
もうそんなにがまんしなくてもと思えるところもあり
無理もないとうなづいたのだった。
年が明けて二十日の初恵比寿の夜、
ひろみちゃんの最後の勤めの日、
飲み仲間みんなで集まろうとメールが来る。
退社祝いのワインを手ぬぐいでくるんで抱えて
足を運んだ。
飲み仲間みんなでテーブルひとつ陣取って、
カウンターの向こうのひろみちゃんの労をねぎらい
乾杯する。
みんなのたまり場だったから、
ひろみちゃんがいなくなれば、ここで飲むこともなくなると、
そんなことを思いながら、生ビールと白ワインを飲んで
竹鶴をちびちびストレートで味わった。
仕事をやめたら住んでいる貸家も引き払って、
実家のある山の町に戻るという。
寒いあいだ、ゆっくり身の回りの始末をして
暖かくなるころ、心機一転の道を歩いてゆければと思う。

自分の色で
睦月 十三
馴染みの飲み屋のいいださんと
昼酒を酌みにかんだたさんへ出かけた。
カウンターに腰を下ろし、生ビールをたのみ、
いいださんは初っぱなから信濃光のぬる燗をたのむ。
酌みながら話をすれば、
先日はまいりましたという。
いいださんは、酒といえばビールと日本酒しか好まない。
店に置いてあるのも、ビールはエビス、
日本酒は好みのものを数種類。
焼酎といえば、申しわけ程度に麦が一種類で
ワインやサワーや酎ハイはいっさいメニューに載っていない。
先日、二十代前半とおぼしきカップルがやってきた。
案の定、サワーはないのかと聞かれ、
申し訳ないとあやまって梅酒でがまんしてもらったという。
若いお客さんはサワーや酎ハイを飲みたがる人が多い。
迷惑かけるけど、美味しいと思わないから
置きたくないんですよねえというから、
こちらはその手のアルコールがなくても平気な身、
個人の店は、営んでいる御主人の色があるのが良いのだから
酒、肴、自分の筋を通すのがよろしいと
ビール一杯のいきおいで答えた。
二人して大信州の冷やへと切りかえる。
かんだたさんはといえば
日本酒の銘柄は三種類に芋焼酎が一種類。
ビールは瓶も生もアサヒで、
御主人が自分の舌でたしかめて決めている。
お客さんに言われるままに飲み物のメニューを増やしたら
在庫ばかり増えて困っていると言っていた飲み屋さんもいる。
足を運び、居心地の良さを感じたなら
店の色に静かに身をまかせるのも
客のマナーのうちかと思う。
大信州から帰山に変えて、久しぶりの酸のある味が
口の中をさっぱりとさせる。
大根おろしをつまみに信濃光の常温を二本酌んでから
蕎麦で締めて、腹いっぱい、気持ちいっぱい
好い昼を過ごさせていただいた。
去年縁のできた飲み屋さんは、入り口に
お酒を飲まないで食事だけの方はおことわりします
と書いてある。
料理はなにを食べても美味しいのに、
うちの主役は日本酒ですと、きっぱり御主人がいう。
飲み屋は、旨い酒を酌みながら自分と、
あるいは気のおけない仲間と向き合うところといさぎよい。
年が明けてまだ顔を出していない。
豆バターをつまみに土佐のしらぎくを酌みに行かなくてはいけない。
馴染みの飲み屋のいいださんと
昼酒を酌みにかんだたさんへ出かけた。
カウンターに腰を下ろし、生ビールをたのみ、
いいださんは初っぱなから信濃光のぬる燗をたのむ。
酌みながら話をすれば、
先日はまいりましたという。
いいださんは、酒といえばビールと日本酒しか好まない。
店に置いてあるのも、ビールはエビス、
日本酒は好みのものを数種類。
焼酎といえば、申しわけ程度に麦が一種類で
ワインやサワーや酎ハイはいっさいメニューに載っていない。
先日、二十代前半とおぼしきカップルがやってきた。
案の定、サワーはないのかと聞かれ、
申し訳ないとあやまって梅酒でがまんしてもらったという。
若いお客さんはサワーや酎ハイを飲みたがる人が多い。
迷惑かけるけど、美味しいと思わないから
置きたくないんですよねえというから、
こちらはその手のアルコールがなくても平気な身、
個人の店は、営んでいる御主人の色があるのが良いのだから
酒、肴、自分の筋を通すのがよろしいと
ビール一杯のいきおいで答えた。
二人して大信州の冷やへと切りかえる。
かんだたさんはといえば
日本酒の銘柄は三種類に芋焼酎が一種類。
ビールは瓶も生もアサヒで、
御主人が自分の舌でたしかめて決めている。
お客さんに言われるままに飲み物のメニューを増やしたら
在庫ばかり増えて困っていると言っていた飲み屋さんもいる。
足を運び、居心地の良さを感じたなら
店の色に静かに身をまかせるのも
客のマナーのうちかと思う。
大信州から帰山に変えて、久しぶりの酸のある味が
口の中をさっぱりとさせる。
大根おろしをつまみに信濃光の常温を二本酌んでから
蕎麦で締めて、腹いっぱい、気持ちいっぱい
好い昼を過ごさせていただいた。
去年縁のできた飲み屋さんは、入り口に
お酒を飲まないで食事だけの方はおことわりします
と書いてある。
料理はなにを食べても美味しいのに、
うちの主役は日本酒ですと、きっぱり御主人がいう。
飲み屋は、旨い酒を酌みながら自分と、
あるいは気のおけない仲間と向き合うところといさぎよい。
年が明けてまだ顔を出していない。
豆バターをつまみに土佐のしらぎくを酌みに行かなくてはいけない。
匂ひにかこまれて
睦月 十二
いろんな匂いに囲まれている。
朝の味噌汁、仕事前の珈琲、
仕事で使うパーマ液、シャンプー、
スタイリング剤の匂い。
仕事で使う材料の中には
アンモニアを含むものもあり
この匂いがどうもというお客さんもいて、
仕事の合い間合い間に香を焚けば
白檀や沈香の匂いにつつまれる。
仕事で使っているシャンプーは、
グレープフルーツの果汁を香料に使っているから
爽やかな匂いが評判がいい。
メープルシロップを香料に使っているシャンプーも
同じメーカーから出ているのに、
そちらのほうはちと分がわるく、
好き嫌いが別れている。
甘すぎる香りが、人によっては
少々くどいのかもしれない。
この頃扱い始めたシャンプーは
洗い上がりがさっぱりとして、
あおあおとした緑を思わせる匂いが
爽やかで気に入っている。
油分の多い髪の人に使ってもらえればと思う。
仕事をしていると、いろんな営業の人が訪ねてくる。
煙草の匂いいっぱいに入ってくる人もいれば
アナタ オーデコロン ツケスギアルヨ
という人もいて、
そういう人は、話を聞く前に
こちらの気持ちが引いてしまいこまる。
仕事を終えて飲みに出る。
馴染みの店で旨い酒と肴を堪能しての帰り道
締めの一杯をとバーに立ち寄ることがある。
たいていジントニックのあとにウイスキーを二、三杯。
ぜんぜん一杯でおわらない。
好みの銘柄の果物や蜂蜜のような甘い香りや
深い森の緑を思わせる香りに触れると
気持ちが落ち着く。
香りのよさにつられてもう一杯。
それでたいてい飲みすぎている。
春になると住んでいる町の界隈にも
花や木々の匂いが感じられるようになる。
あともうすこし。
冷え込みきびしいぶん、春がまちどおしい。

いろんな匂いに囲まれている。
朝の味噌汁、仕事前の珈琲、
仕事で使うパーマ液、シャンプー、
スタイリング剤の匂い。
仕事で使う材料の中には
アンモニアを含むものもあり
この匂いがどうもというお客さんもいて、
仕事の合い間合い間に香を焚けば
白檀や沈香の匂いにつつまれる。
仕事で使っているシャンプーは、
グレープフルーツの果汁を香料に使っているから
爽やかな匂いが評判がいい。
メープルシロップを香料に使っているシャンプーも
同じメーカーから出ているのに、
そちらのほうはちと分がわるく、
好き嫌いが別れている。
甘すぎる香りが、人によっては
少々くどいのかもしれない。
この頃扱い始めたシャンプーは
洗い上がりがさっぱりとして、
あおあおとした緑を思わせる匂いが
爽やかで気に入っている。
油分の多い髪の人に使ってもらえればと思う。
仕事をしていると、いろんな営業の人が訪ねてくる。
煙草の匂いいっぱいに入ってくる人もいれば
アナタ オーデコロン ツケスギアルヨ
という人もいて、
そういう人は、話を聞く前に
こちらの気持ちが引いてしまいこまる。
仕事を終えて飲みに出る。
馴染みの店で旨い酒と肴を堪能しての帰り道
締めの一杯をとバーに立ち寄ることがある。
たいていジントニックのあとにウイスキーを二、三杯。
ぜんぜん一杯でおわらない。
好みの銘柄の果物や蜂蜜のような甘い香りや
深い森の緑を思わせる香りに触れると
気持ちが落ち着く。
香りのよさにつられてもう一杯。
それでたいてい飲みすぎている。
春になると住んでいる町の界隈にも
花や木々の匂いが感じられるようになる。
あともうすこし。
冷え込みきびしいぶん、春がまちどおしい。

今年もビールのために
睦月 十一
仕事が終わった後ランニングをしている。
春と夏の間は早朝に走っていた。
秋から冬、日の出が遅くなり、寝坊がちになるから
夜の走りへと切りかえた。
走り終え、ひと風呂の後のビールが旨い。
適度な疲れでよく眠れ、
翌朝も体が軽く気持ちよく起きられる。
年が明けての冷え込みのきびしさに負けて
ここのところさぼりがちになる。
祭日の月曜日、たまには一緒に走りましょう。
近所の花屋の若旦那が声をかけてくれた。
空手をしたりランニングをしたり、
日ごろ体を鍛えている人で、
お声かけがありがたい、そろって走りに出かけた。
車の通らない裏道を北へと上がる。
晴天の日の冷たい空気が肌に気持ちがいい。
大きな道路に出たらさすがに車の量が多い。
西友、ユニクロ、綿半と、道沿いの大きな店にも
ひっきりなしに車が出入りしている。
本久の前まで下ったら、来た道をUターンする。
二人で走ると距離が短く感じられてよろしい。
汗をかくと肌がつやつやして、女性じゃなくても気分がいい。
そんなことを話しながら、いつもよりゆっくりしてペースで
ところどころ残る雪に、ときどき足をとられながら走る。
裏道をもどる途中、遠回りをしてゆきましょうというから
付いていったら、右に折れ、雲上殿への坂を上り始める。
えんえんつづく上り坂に、いっきに体力消費して、
さすがに息も荒くなる。
たえだえになりながら上りきり、疲れたあぁぁっといいながら、
ペースを落として往生地の坂を下って行けば、
善光寺への参拝客の車で狭い道路も混雑をしていた。
人ごみぬって、善光寺の参道で無事ゴール。
よく走ったねえ。では三十分後にと約束して家に戻る。
風呂に入ってゆっくり汗を流したら、ちょうど良い時間になる。
再び若旦那と落ち合って、汗を流したら水分補給。
観光客で賑わう蕎麦屋のひと角に腰を下ろし、
今日も昼からビールで乾杯と相成った。
旨いビールを飲むために。
今年もそのために走っている。
仕事が終わった後ランニングをしている。
春と夏の間は早朝に走っていた。
秋から冬、日の出が遅くなり、寝坊がちになるから
夜の走りへと切りかえた。
走り終え、ひと風呂の後のビールが旨い。
適度な疲れでよく眠れ、
翌朝も体が軽く気持ちよく起きられる。
年が明けての冷え込みのきびしさに負けて
ここのところさぼりがちになる。
祭日の月曜日、たまには一緒に走りましょう。
近所の花屋の若旦那が声をかけてくれた。
空手をしたりランニングをしたり、
日ごろ体を鍛えている人で、
お声かけがありがたい、そろって走りに出かけた。
車の通らない裏道を北へと上がる。
晴天の日の冷たい空気が肌に気持ちがいい。
大きな道路に出たらさすがに車の量が多い。
西友、ユニクロ、綿半と、道沿いの大きな店にも
ひっきりなしに車が出入りしている。
本久の前まで下ったら、来た道をUターンする。
二人で走ると距離が短く感じられてよろしい。
汗をかくと肌がつやつやして、女性じゃなくても気分がいい。
そんなことを話しながら、いつもよりゆっくりしてペースで
ところどころ残る雪に、ときどき足をとられながら走る。
裏道をもどる途中、遠回りをしてゆきましょうというから
付いていったら、右に折れ、雲上殿への坂を上り始める。
えんえんつづく上り坂に、いっきに体力消費して、
さすがに息も荒くなる。
たえだえになりながら上りきり、疲れたあぁぁっといいながら、
ペースを落として往生地の坂を下って行けば、
善光寺への参拝客の車で狭い道路も混雑をしていた。
人ごみぬって、善光寺の参道で無事ゴール。
よく走ったねえ。では三十分後にと約束して家に戻る。
風呂に入ってゆっくり汗を流したら、ちょうど良い時間になる。
再び若旦那と落ち合って、汗を流したら水分補給。
観光客で賑わう蕎麦屋のひと角に腰を下ろし、
今日も昼からビールで乾杯と相成った。
旨いビールを飲むために。
今年もそのために走っている。
酌処 ひ魯ひ魯にて
睦月 十
雪がすくなくて過ごしやすいですね。
ついこの間までそんなことを言っていたのに
降り出したら連日連夜止むことがなく
雪かきに追われた。
細かい雪がまんべんなく降りつづいた日
訪ねてくる方もなくお茶をひいていた。
天気の様子にはかなわない。
仕事の後、雪の降りが少なくなったのを見計らい
ひ魯ひ魯さんまで足を運んだ。
わだかまりごとを胸に抱え、気持ちと時間を持て余しがちなとき
たいていどこかの飲み屋へ出かけては、
愛想のいい御主人や女将さん相手にほろほろ酔っては
気をそらしていた。
年明けて、今年はもうすこし、
ひとりの時間をゆっくりていねいにときめたから
夜の冷え込みのきびしさも手伝って、
家酒酌んで過ごす日がつづいていた。
歩いているうちに雪の降りがまたつよくなり、
真っ白になりながらようやく着いた。
雪を払って店に入り、
ひろしさんとやすこさんとからさわ君に
おくればせながらの新年の挨拶をする。
カウンターに座ってビールでひと息ついていたら
やすこさんがカセットコンロを持ってきて
本日はひとり鍋でございますと言い、
ほどなくひとり分にはでかすぎる鍋を火にかける。
肉だんごと野菜のたくさん入ったキムチ鍋で、
寒い日に体のあたたまる辛い鍋はありがたい。
ひろしさんが、これ、利いてみて下さいと、
一本、四合瓶の栓を抜いてくれる。
お店に来るお客さんに頂いたと言い、
ラベルを見たら北陸の聞いたことのない蔵のものだった。
これは楽しみと早速口にしてみたら、
なかなかきびしい味で、う~むと思わずうなってしまう。
広島の銘酒があるという言葉に気を取り直し、
からさわ君は以前広島の料理屋で修行をしていたから
その縁で広島の酒屋さんから取り寄せたのだという。
呉の土井鉄 いさましい杜氏の名前の銘柄は
名前とはうらはらに、きめの細かいきれいな味で
飲み飽きせずすいすいいける。
この蔵の酒はやっぱりいいねえ。
感心して言い合いながら味わった。
ときおり手の空いたひろしさんと仕事の話などしながら
盃を重ねる。
自分の思うような形で仕事をするのは、
なかなか難しいことだという台詞に
いろんなお客さんを相手にする苦労がうかがえる。
他人との距離のとりかたもいろいろで、
他人の絡み、いろんなことがあるものという話しになる。
鍋の締めの雑炊までしっかりいただいて
すっかりお腹がいっぱいになり、好く食べてよく飲んだ。
この寒さがつづくうちに、
気持ちを内側に籠めた暮らしを出来るようにと思う。

雪がすくなくて過ごしやすいですね。
ついこの間までそんなことを言っていたのに
降り出したら連日連夜止むことがなく
雪かきに追われた。
細かい雪がまんべんなく降りつづいた日
訪ねてくる方もなくお茶をひいていた。
天気の様子にはかなわない。
仕事の後、雪の降りが少なくなったのを見計らい
ひ魯ひ魯さんまで足を運んだ。
わだかまりごとを胸に抱え、気持ちと時間を持て余しがちなとき
たいていどこかの飲み屋へ出かけては、
愛想のいい御主人や女将さん相手にほろほろ酔っては
気をそらしていた。
年明けて、今年はもうすこし、
ひとりの時間をゆっくりていねいにときめたから
夜の冷え込みのきびしさも手伝って、
家酒酌んで過ごす日がつづいていた。
歩いているうちに雪の降りがまたつよくなり、
真っ白になりながらようやく着いた。
雪を払って店に入り、
ひろしさんとやすこさんとからさわ君に
おくればせながらの新年の挨拶をする。
カウンターに座ってビールでひと息ついていたら
やすこさんがカセットコンロを持ってきて
本日はひとり鍋でございますと言い、
ほどなくひとり分にはでかすぎる鍋を火にかける。
肉だんごと野菜のたくさん入ったキムチ鍋で、
寒い日に体のあたたまる辛い鍋はありがたい。
ひろしさんが、これ、利いてみて下さいと、
一本、四合瓶の栓を抜いてくれる。
お店に来るお客さんに頂いたと言い、
ラベルを見たら北陸の聞いたことのない蔵のものだった。
これは楽しみと早速口にしてみたら、
なかなかきびしい味で、う~むと思わずうなってしまう。
広島の銘酒があるという言葉に気を取り直し、
からさわ君は以前広島の料理屋で修行をしていたから
その縁で広島の酒屋さんから取り寄せたのだという。
呉の土井鉄 いさましい杜氏の名前の銘柄は
名前とはうらはらに、きめの細かいきれいな味で
飲み飽きせずすいすいいける。
この蔵の酒はやっぱりいいねえ。
感心して言い合いながら味わった。
ときおり手の空いたひろしさんと仕事の話などしながら
盃を重ねる。
自分の思うような形で仕事をするのは、
なかなか難しいことだという台詞に
いろんなお客さんを相手にする苦労がうかがえる。
他人との距離のとりかたもいろいろで、
他人の絡み、いろんなことがあるものという話しになる。
鍋の締めの雑炊までしっかりいただいて
すっかりお腹がいっぱいになり、好く食べてよく飲んだ。
この寒さがつづくうちに、
気持ちを内側に籠めた暮らしを出来るようにと思う。

足もと注意で
睦月 九
馴染みの蕎麦屋の奥さんが訪ねてきてくれた。
左手を包帯で包んで首から吊っているから
どうしたのですかとおどろいて尋ねたら
すべってころんで手を打って、
骨にひびが入ってしまったのだという。
包帯の間から見える指も、紫色に腫れて痛々しい。
冬をむかえると、身近なところで
転んでけがをする人がいる。
雪が降り、冷え込んで凍った道ですってんころりん。
体格のいいお寺の奥さんは、
善光寺の石畳ですべって転び、足の骨を折った。
母の知り合いは、両手に荷物を持ったまま
タクシーから下りたとたんすべって転んで、やはり足を折った。
あぶないのは外にいるときだけでなく、
茶の間のこたつ布団に引っかかって転んだり、
広告のチラシを踏んづけてすべって転んだり、
家の中にいても転んでけがをする人もいるから
よくよく気をつけなくてはいけない。
心配なのは人さまのことばかりでなく、
父は若いころ、冬の晩、酔っ払っては凍った道で転んで
けがをしたことがたびたびあって、
その血を引いているのだから
飲みに出る時は、足もと気をつけるようにと思っているのに
酔うとたいてい忘れている。
蕎麦屋さんは、御主人と奥さんと
パートのおばさんで切り盛りしている。
飲み屋の町のわきに折れて、小路を入ったところにある。
濃い目の汁と細めの蕎麦が美味しくて、
酒の品揃え良いのもありがたい。
御主人が蕎麦を打ち、奥さんがビールを注いだり
器を運んだりしている。
ひと月はギブスをはずせないから、
仕事に差し支えのあるのがつらい。
よりによって、転んでけがをしたのが還暦の誕生日の日で
とんだ誕生日プレゼントになったと奥さんがこぼす。
けがをしたら、御主人がずいぶん面倒をみてくれて、
へえっ、こんなやさしいところもあるんだと驚いたという。
やさしそうな顔をしているくせに、ふだんは全然やさしくないのよと
まじめな顔でいうものだから、
御主人の顔を思い出し、なんと答えたらよいものか
返事にこまった。
馴染みの蕎麦屋の奥さんが訪ねてきてくれた。
左手を包帯で包んで首から吊っているから
どうしたのですかとおどろいて尋ねたら
すべってころんで手を打って、
骨にひびが入ってしまったのだという。
包帯の間から見える指も、紫色に腫れて痛々しい。
冬をむかえると、身近なところで
転んでけがをする人がいる。
雪が降り、冷え込んで凍った道ですってんころりん。
体格のいいお寺の奥さんは、
善光寺の石畳ですべって転び、足の骨を折った。
母の知り合いは、両手に荷物を持ったまま
タクシーから下りたとたんすべって転んで、やはり足を折った。
あぶないのは外にいるときだけでなく、
茶の間のこたつ布団に引っかかって転んだり、
広告のチラシを踏んづけてすべって転んだり、
家の中にいても転んでけがをする人もいるから
よくよく気をつけなくてはいけない。
心配なのは人さまのことばかりでなく、
父は若いころ、冬の晩、酔っ払っては凍った道で転んで
けがをしたことがたびたびあって、
その血を引いているのだから
飲みに出る時は、足もと気をつけるようにと思っているのに
酔うとたいてい忘れている。
蕎麦屋さんは、御主人と奥さんと
パートのおばさんで切り盛りしている。
飲み屋の町のわきに折れて、小路を入ったところにある。
濃い目の汁と細めの蕎麦が美味しくて、
酒の品揃え良いのもありがたい。
御主人が蕎麦を打ち、奥さんがビールを注いだり
器を運んだりしている。
ひと月はギブスをはずせないから、
仕事に差し支えのあるのがつらい。
よりによって、転んでけがをしたのが還暦の誕生日の日で
とんだ誕生日プレゼントになったと奥さんがこぼす。
けがをしたら、御主人がずいぶん面倒をみてくれて、
へえっ、こんなやさしいところもあるんだと驚いたという。
やさしそうな顔をしているくせに、ふだんは全然やさしくないのよと
まじめな顔でいうものだから、
御主人の顔を思い出し、なんと答えたらよいものか
返事にこまった。
だれだかわからない
睦月 八
年が明けて、雪のすくない日がつづく。
まともに雪かきをした日がなく、
手がかからずありがたい。
この冬初めて路地に積もった朝、安眠をむさぼっていたら、
向かいの家の奥さんと、隣の家の奥さんが
暗いうちから雪かきを始める音がする。
のこのこ起きだして、さてと構える頃には、
こちらの玄関先まですっかりきれいにしてあって、
恐縮したのだった。
雪の降らない日がつづきますよう、
ものぐさな思いで過ごしている。
近所の人が、姪御さんを連れて訪ねてきた。
大学生になる姪御さんは、年頃のわりに女っけがないという。
それではいけないと、化粧を教え、かわいい服を買い、
ついでに髪型も変えようということになり、
連れて来てくれたのだった。
どんな髪型にしたいのかと尋ねれば、
アッキーナのようにしたいと言われとまどう。
だれですか? 頭の中に?マークが飛び交う。
テレビを見るといえば、ニュースとときどきスポーツと、
思い出したとき、水曜日九時の相棒ぐらいが関の山だった。
燗酒つけて湯豆腐での晩酌に、
がちゃがちゃにぎやかな番組はいらないと
アイドルの出ているものは見ることがない。
暮れの紅白歌合戦で、AKB48も、初めて目にした始末で、
これがかのうわさのかたたちですかと眺めていた。
今の若い子は、みんな同じような顔で区別が付かないと
つぶやく母にうなづいたのもなさけないことで、
アッキーナにいたっては、名前を聞いて
中森明菜を思い浮かべてしまったのは、
時代錯誤もはなはだしく、はずかしいことだった。
仕事をさせてもらいながら、大学のことなど尋ねれば
にこにこ明るく答えてくれて、気持ちがいい。
女っけがないというけれど、澄んだ笑顔があるだけで
じゅうぶんかわいく、魅力あふれるのは若さの特権だと、
しみじみ思うのだった。
年が明けて、雪のすくない日がつづく。
まともに雪かきをした日がなく、
手がかからずありがたい。
この冬初めて路地に積もった朝、安眠をむさぼっていたら、
向かいの家の奥さんと、隣の家の奥さんが
暗いうちから雪かきを始める音がする。
のこのこ起きだして、さてと構える頃には、
こちらの玄関先まですっかりきれいにしてあって、
恐縮したのだった。
雪の降らない日がつづきますよう、
ものぐさな思いで過ごしている。
近所の人が、姪御さんを連れて訪ねてきた。
大学生になる姪御さんは、年頃のわりに女っけがないという。
それではいけないと、化粧を教え、かわいい服を買い、
ついでに髪型も変えようということになり、
連れて来てくれたのだった。
どんな髪型にしたいのかと尋ねれば、
アッキーナのようにしたいと言われとまどう。
だれですか? 頭の中に?マークが飛び交う。
テレビを見るといえば、ニュースとときどきスポーツと、
思い出したとき、水曜日九時の相棒ぐらいが関の山だった。
燗酒つけて湯豆腐での晩酌に、
がちゃがちゃにぎやかな番組はいらないと
アイドルの出ているものは見ることがない。
暮れの紅白歌合戦で、AKB48も、初めて目にした始末で、
これがかのうわさのかたたちですかと眺めていた。
今の若い子は、みんな同じような顔で区別が付かないと
つぶやく母にうなづいたのもなさけないことで、
アッキーナにいたっては、名前を聞いて
中森明菜を思い浮かべてしまったのは、
時代錯誤もはなはだしく、はずかしいことだった。
仕事をさせてもらいながら、大学のことなど尋ねれば
にこにこ明るく答えてくれて、気持ちがいい。
女っけがないというけれど、澄んだ笑顔があるだけで
じゅうぶんかわいく、魅力あふれるのは若さの特権だと、
しみじみ思うのだった。
酌酒 大信州 豊乃蔵
睦月 七
日本酒を頂いた。
久しぶりの大信州。
酌んでみたら,あたりのいい含み香の,
すっきりした味わいで、冷やでも燗でも美味しい。
昔、付き合いのあった酒屋さんが、
この頃味がよくなったのでと、
扱いはじめたときに、初めて買った。
飲んでみたらほんとに美味しく、
それから、その酒屋さんとの付き合い切れるまで、
我が家の晩酌の定番になっていた。
ときどき飲み屋で飲んでみると、
やっぱり美味しいとそのたび思う。
本社が松本にあり、造る蔵は、
長野から少し離れた、豊野の町にある。
いちど蔵を訪ねたことがある。
この蔵は、兄弟で営んでいて、
お兄さんが営業を、弟さん造りを受け持っていて、
ひげづらの弟さんに案内してただいた。
蔵の中を歩いていると、あちこちから若い蔵人さんが、
こんにちはと明るく声をかけてくれ、礼儀正しい。
造りの量のわりに働く人の数が多いのは、
人手をかけた、きめの細かい造りをしたいからだという。
ひととおり案内してもらい、仕込み中の酒の入った
タンクを見せてもらう。
タンクには 愛と感謝 と書いた紙が貼ってあり、
杜氏さんの好きな言葉だと教えてくれる。
純米吟醸の味を利かせてもらっていたら、
その杜氏さんがやってきた。
下原多津栄さんはその当時、八十八歳の
長野県で最高齢の杜氏さんで、若い蔵元兄弟を支えて
酒を造っているのだった。
よくいらっしゃいました。やさしい笑顔で挨拶をされ、
せっかくだからと、貴重な品評会用の
大吟醸の味も利かせていただいた。
何十年も酒造りに携わってきた人の、
気さくな物腰がありがたかった。
何年か前から、若い蔵人に造りを
任せるようになったと耳にした。
今でもお元気に、蔵の中を歩いているだろうか。
酌むたびに思い出す。

日本酒を頂いた。
久しぶりの大信州。
酌んでみたら,あたりのいい含み香の,
すっきりした味わいで、冷やでも燗でも美味しい。
昔、付き合いのあった酒屋さんが、
この頃味がよくなったのでと、
扱いはじめたときに、初めて買った。
飲んでみたらほんとに美味しく、
それから、その酒屋さんとの付き合い切れるまで、
我が家の晩酌の定番になっていた。
ときどき飲み屋で飲んでみると、
やっぱり美味しいとそのたび思う。
本社が松本にあり、造る蔵は、
長野から少し離れた、豊野の町にある。
いちど蔵を訪ねたことがある。
この蔵は、兄弟で営んでいて、
お兄さんが営業を、弟さん造りを受け持っていて、
ひげづらの弟さんに案内してただいた。
蔵の中を歩いていると、あちこちから若い蔵人さんが、
こんにちはと明るく声をかけてくれ、礼儀正しい。
造りの量のわりに働く人の数が多いのは、
人手をかけた、きめの細かい造りをしたいからだという。
ひととおり案内してもらい、仕込み中の酒の入った
タンクを見せてもらう。
タンクには 愛と感謝 と書いた紙が貼ってあり、
杜氏さんの好きな言葉だと教えてくれる。
純米吟醸の味を利かせてもらっていたら、
その杜氏さんがやってきた。
下原多津栄さんはその当時、八十八歳の
長野県で最高齢の杜氏さんで、若い蔵元兄弟を支えて
酒を造っているのだった。
よくいらっしゃいました。やさしい笑顔で挨拶をされ、
せっかくだからと、貴重な品評会用の
大吟醸の味も利かせていただいた。
何十年も酒造りに携わってきた人の、
気さくな物腰がありがたかった。
何年か前から、若い蔵人に造りを
任せるようになったと耳にした。
今でもお元気に、蔵の中を歩いているだろうか。
酌むたびに思い出す。

とくとくこーひー
睦月 六
朝いちばんの仕事は、珈琲を淹れること。
豆を挽き、お湯を沸かす。
五人分淹れて、一杯自分の器に入れて
残りは訪ねてきてくれる人のために
酸化せぬよう魔法瓶に入れておく。
くちあけさんがお見えになると
きまって、いい香りがしますねえといわれる。
ひと仕事の前に、一杯飲んでいただくのだった。
年明け、ほろにが工房さんに豆を注文した。
産地のちがう、七種類の豆をブレンドした福袋が付いてきて、
淹れてみたら、酸味の少ない深みのある味わいで、
苦いチョコをつまみたくなった。
知り合いの中には苦手な人もいる。
苦いのがいやですとか、飲むと気持ちがわるくなるとか、
飲みなれていると気にならず、
やっぱり、刺激のつよい飲み物なのかと、そのたびに思う。
珈琲を好きな知り合いも、味の好みはいろいろで、
濃いのが好きな人もいれば、あっさりしたのが好きな人もいる。
昔は日本酒も珈琲も、がつんとした味のものが好きだったのに、
この頃は、どちらも軽い澄んだ味を好んでいる。
ほろにが工房さんのメニューの中では、ピュアブレンドが気に入りで、
年輩の方にも、若い方にも美味しいと言ってもらえる、
程の良い味わいが好い。
休みの日の朝、散歩に出る。
権堂の朝早くから開いているパン屋さん、
トイーゴのモスバーガー、駅前のドトールに
改札口の前のカフェ、仕事前に珈琲を飲んでいる
おじさんやおねえさんをたくさん見かける。
昔、駅前の大きな美容室に勤めていた時に、
気の合わない上司と顔を会わせるのがいやで、
出勤前に近くの喫茶店で珈琲を飲んでは、
気持ちを切り替えていた。
みんなも朝の一杯で、気持ちを仕事モードに
しているのかと思う。
町を歩いていても、この頃は、風情のある喫茶店のないのがさみしい。
水出し珈琲が自慢だという喫茶店が出来たので
行ってみたことがある。
ずいぶんいい値段がしたのに、
口にしたら、生涯最高のまずい味で、
カップ一杯飲めずに出てきてしまった。
どうしたらあんなにごった味が出せるのか、
まずいものを作るのも技術のうちかと、妙な感心をした。

朝いちばんの仕事は、珈琲を淹れること。
豆を挽き、お湯を沸かす。
五人分淹れて、一杯自分の器に入れて
残りは訪ねてきてくれる人のために
酸化せぬよう魔法瓶に入れておく。
くちあけさんがお見えになると
きまって、いい香りがしますねえといわれる。
ひと仕事の前に、一杯飲んでいただくのだった。
年明け、ほろにが工房さんに豆を注文した。
産地のちがう、七種類の豆をブレンドした福袋が付いてきて、
淹れてみたら、酸味の少ない深みのある味わいで、
苦いチョコをつまみたくなった。
知り合いの中には苦手な人もいる。
苦いのがいやですとか、飲むと気持ちがわるくなるとか、
飲みなれていると気にならず、
やっぱり、刺激のつよい飲み物なのかと、そのたびに思う。
珈琲を好きな知り合いも、味の好みはいろいろで、
濃いのが好きな人もいれば、あっさりしたのが好きな人もいる。
昔は日本酒も珈琲も、がつんとした味のものが好きだったのに、
この頃は、どちらも軽い澄んだ味を好んでいる。
ほろにが工房さんのメニューの中では、ピュアブレンドが気に入りで、
年輩の方にも、若い方にも美味しいと言ってもらえる、
程の良い味わいが好い。
休みの日の朝、散歩に出る。
権堂の朝早くから開いているパン屋さん、
トイーゴのモスバーガー、駅前のドトールに
改札口の前のカフェ、仕事前に珈琲を飲んでいる
おじさんやおねえさんをたくさん見かける。
昔、駅前の大きな美容室に勤めていた時に、
気の合わない上司と顔を会わせるのがいやで、
出勤前に近くの喫茶店で珈琲を飲んでは、
気持ちを切り替えていた。
みんなも朝の一杯で、気持ちを仕事モードに
しているのかと思う。
町を歩いていても、この頃は、風情のある喫茶店のないのがさみしい。
水出し珈琲が自慢だという喫茶店が出来たので
行ってみたことがある。
ずいぶんいい値段がしたのに、
口にしたら、生涯最高のまずい味で、
カップ一杯飲めずに出てきてしまった。
どうしたらあんなにごった味が出せるのか、
まずいものを作るのも技術のうちかと、妙な感心をした。

あったか味噌汁
睦月 五
定期購読している、料理の雑誌のダンチュウの、
真っ赤な表紙の二月号のタイトルは、
人生が変わる味噌汁とあり、
味噌汁がずいぶんといさましい。
毎朝、朝食代わりに味噌汁を一杯飲んでいる。
昨年の暮れに、なじみのおでん屋の女将さんと、
近所の小林さんの奥さんに大根をたくさん頂いた。
ひとりで使う量などたかが知れているから、
なかなか終わらずに
年が明けても、大根の味噌汁ばかり飲んでいる。
朝起きて顔を洗う。神棚の水を換え、手を合わせ、
仕事場と玄関前の掃除をしたら、
仕事場の祖母の写真に手を合わせる。
氏神さんの神社にお参りをして戻り、
細切りにした大根と水を鍋に入れ火をかける。
味噌を溶いて、七味唐辛子をたっぷりふって出来上がり。
冷え込んだ朝、体もあたたまり、
寝ぼけた頭もようやく覚めてくる。
味噌汁飲んで、朝の出だしをゆっくりと。
それだけで一日に向かう気持ちに
ゆとりが出来るからありがたい。
ダンチュウをめくれば、なめこ、蟹、大根と油揚げ、
落とし玉子、しじみにあさり、いろんな具の味噌汁が載っていて
味噌汁を肴に一杯やりたくなってくる。
飲み屋の〆におにぎりを頼んだときにについてくる、
しっかりと出汁のきいた味噌汁が美味しい。
二日酔いのときに飲むと、少し気分が楽になる。
実家の父は八十歳になった今も、
毎日四合、五合の酒を飲んでいるのに、健康そのもので、
そういえば、晩酌の後、きまってご飯二膳に味噌汁二杯、
朝ごはんの時もかならず二杯飲んでいるから、
それが健康の秘訣なのかと思い出あたる。
酒好きはたいてい汁ものが好きで、
仕事人の梅安さんに、ねぎま汁の味がひと味ちがう。
ははあ、ごま油を垂らしなすったね。という場面があったと
思い出した。
明日の朝はまねしてみたい。
定期購読している、料理の雑誌のダンチュウの、
真っ赤な表紙の二月号のタイトルは、
人生が変わる味噌汁とあり、
味噌汁がずいぶんといさましい。
毎朝、朝食代わりに味噌汁を一杯飲んでいる。
昨年の暮れに、なじみのおでん屋の女将さんと、
近所の小林さんの奥さんに大根をたくさん頂いた。
ひとりで使う量などたかが知れているから、
なかなか終わらずに
年が明けても、大根の味噌汁ばかり飲んでいる。
朝起きて顔を洗う。神棚の水を換え、手を合わせ、
仕事場と玄関前の掃除をしたら、
仕事場の祖母の写真に手を合わせる。
氏神さんの神社にお参りをして戻り、
細切りにした大根と水を鍋に入れ火をかける。
味噌を溶いて、七味唐辛子をたっぷりふって出来上がり。
冷え込んだ朝、体もあたたまり、
寝ぼけた頭もようやく覚めてくる。
味噌汁飲んで、朝の出だしをゆっくりと。
それだけで一日に向かう気持ちに
ゆとりが出来るからありがたい。
ダンチュウをめくれば、なめこ、蟹、大根と油揚げ、
落とし玉子、しじみにあさり、いろんな具の味噌汁が載っていて
味噌汁を肴に一杯やりたくなってくる。
飲み屋の〆におにぎりを頼んだときにについてくる、
しっかりと出汁のきいた味噌汁が美味しい。
二日酔いのときに飲むと、少し気分が楽になる。
実家の父は八十歳になった今も、
毎日四合、五合の酒を飲んでいるのに、健康そのもので、
そういえば、晩酌の後、きまってご飯二膳に味噌汁二杯、
朝ごはんの時もかならず二杯飲んでいるから、
それが健康の秘訣なのかと思い出あたる。
酒好きはたいてい汁ものが好きで、
仕事人の梅安さんに、ねぎま汁の味がひと味ちがう。
ははあ、ごま油を垂らしなすったね。という場面があったと
思い出した。
明日の朝はまねしてみたい。

手に技のこと
睦月 四
知り合いに三味線を習っている人がいる。
月に二回、東京のお師匠さんのところまで
教えを請いに出かけて、腕をみがいている。
いっしょに習いませんかと声をかけてもらい、
龍馬伝で、着流し姿で三味線を弾く高杉晋作を思いだし、
粋ですなあとなびいたものの、
歳を重ねるごとに増すものぐさぶりは
長続きする自信がない。
せっかくのお誘い、おことわり申し上げた。
手に技の知り合いがいる。
年明け早々訪ねてきてくれた人は、
針金で作った鳥のオブジェを持ってきてくれた。
仕事場の梁からぶらさげたら、もさっとした形に
仕事場の空気がひとつゆるくなって好い。
蕎麦を打つ、魚をさばく、音を奏でる。
布を縫う、布を染める。
絵を描く、人を、景色を撮る。
木を彫る、器を作る、言葉を書く。
なにかの折りに、そういうかたがたの台詞に触れることがある。
知らない分野のわざごとでも、聞いていて飽きず、
気持ちに馴染むのは、かたちづくることの根に通じる、
気のしるべがあるからかもしれない。
書を教えているかたがいる。
遊 という字を書くときに、友だちと遊んだあと、
楽しかったね。また明日もいっしょに遊ぼうね。
名残惜しい気持ちを抱いて向かうと、
さいごのしんにょうがのびやかに
好い字が書けるとうかがった。
気持ち、身持ちの在り方はつながっていると、
思ったのだった。

知り合いに三味線を習っている人がいる。
月に二回、東京のお師匠さんのところまで
教えを請いに出かけて、腕をみがいている。
いっしょに習いませんかと声をかけてもらい、
龍馬伝で、着流し姿で三味線を弾く高杉晋作を思いだし、
粋ですなあとなびいたものの、
歳を重ねるごとに増すものぐさぶりは
長続きする自信がない。
せっかくのお誘い、おことわり申し上げた。
手に技の知り合いがいる。
年明け早々訪ねてきてくれた人は、
針金で作った鳥のオブジェを持ってきてくれた。
仕事場の梁からぶらさげたら、もさっとした形に
仕事場の空気がひとつゆるくなって好い。
蕎麦を打つ、魚をさばく、音を奏でる。
布を縫う、布を染める。
絵を描く、人を、景色を撮る。
木を彫る、器を作る、言葉を書く。
なにかの折りに、そういうかたがたの台詞に触れることがある。
知らない分野のわざごとでも、聞いていて飽きず、
気持ちに馴染むのは、かたちづくることの根に通じる、
気のしるべがあるからかもしれない。
書を教えているかたがいる。
遊 という字を書くときに、友だちと遊んだあと、
楽しかったね。また明日もいっしょに遊ぼうね。
名残惜しい気持ちを抱いて向かうと、
さいごのしんにょうがのびやかに
好い字が書けるとうかがった。
気持ち、身持ちの在り方はつながっていると、
思ったのだった。

豆日和
睦月 三
醤油豆を頂いた。
中央通りの善光寺への入り口の左側に、
かどの大丸さんがある。
通りに面したガラス越しで、大きい体の若旦那が
毎日蕎麦をこね、伸ばし、テンポよく切る様は、すっかり町の風景になっている。
その日も姿が見えたから、新年の挨拶にと顔を出したら
自家製ですと頂いたのだった。
種類を問わず豆好きでいる。
この時期になると、母は角切りのこんにゃくを入れた黒豆を煮る。
こんにゃくと豆の食感が好きだったのに、
最近は億劫がって作ることをせず、
市販のものが食卓に並びものたりない。
夏になれば冷凍の枝豆を買い置きしては、
ビールのつまみにしている。
電子レンジで温めれば、
すぐに食べられる手軽さが良いと、楽をしていた。
近所の八百屋の軒先に、枝つきの奴を見つけて買って、
捥いで茹でて塩をふってつまめば、
青臭い香りと旨みは格段に美味しく、
美味しいものはちょっとの手間が大事と実感した。
飲み屋へ行ってメニューを見れば、
一年中枝豆が載っている店が多いのに、
うちは夏しか出しませんと、
季節感を大事にする馴染みがあるのもありがたい。
自宅でいちばん食べるのはくらかけ豆で、
長野の北の産物で、
青々茹で上がったら、さっぱり醤油をかけるのも好し。
濃い目の出汁に浸すも好し。
酒との愛称好く、家で飲み会などやれば、
みんなさいごはつまみながら、だらだら盃を重ねている。
頂いた醤油豆は、甘すぎずしょっぱすぎず、
程よくやさしい味で美味しい。
毎晩少しずつ箸をつけている。

醤油豆を頂いた。
中央通りの善光寺への入り口の左側に、
かどの大丸さんがある。
通りに面したガラス越しで、大きい体の若旦那が
毎日蕎麦をこね、伸ばし、テンポよく切る様は、すっかり町の風景になっている。
その日も姿が見えたから、新年の挨拶にと顔を出したら
自家製ですと頂いたのだった。
種類を問わず豆好きでいる。
この時期になると、母は角切りのこんにゃくを入れた黒豆を煮る。
こんにゃくと豆の食感が好きだったのに、
最近は億劫がって作ることをせず、
市販のものが食卓に並びものたりない。
夏になれば冷凍の枝豆を買い置きしては、
ビールのつまみにしている。
電子レンジで温めれば、
すぐに食べられる手軽さが良いと、楽をしていた。
近所の八百屋の軒先に、枝つきの奴を見つけて買って、
捥いで茹でて塩をふってつまめば、
青臭い香りと旨みは格段に美味しく、
美味しいものはちょっとの手間が大事と実感した。
飲み屋へ行ってメニューを見れば、
一年中枝豆が載っている店が多いのに、
うちは夏しか出しませんと、
季節感を大事にする馴染みがあるのもありがたい。
自宅でいちばん食べるのはくらかけ豆で、
長野の北の産物で、
青々茹で上がったら、さっぱり醤油をかけるのも好し。
濃い目の出汁に浸すも好し。
酒との愛称好く、家で飲み会などやれば、
みんなさいごはつまみながら、だらだら盃を重ねている。
頂いた醤油豆は、甘すぎずしょっぱすぎず、
程よくやさしい味で美味しい。
毎晩少しずつ箸をつけている。

初 新年会
睦月 二
馴染みの焼き鳥屋のはな緒さんが一周年を迎えた。
年明けの四日、新年会をやりましょうと
近所の薬屋の若旦那と足を運んだ。
仕事始めの日で、店に入れば仕事帰りのおじさんたちが
すでににぎにぎしく一杯やっている。
新年と、一周年おめでとうの挨拶をして
カウンターに腰をおろした。
ビールで乾杯をすれば、次々と常連さんが入ってきて、
おめでとう、今年もよろしくと
お母さんとまりちゃんに挨拶をしてゆく。
年明け早々のいそがしさに、
お母さんは小鉢物を誂えたり、空いた器を洗いのけしたり、
まりちゃんは、串を焼いたり、燗酒やビールを運んだり、
親子でそっくりの丸い体がフル活動している。
あちこち串の注文が入るから、
煙をあおぐ団扇の威勢も増してくる
ねぎまとつくねとトマト巻き、豚バラをつまみながら
芋のお湯割りの杯をかさねる。
酌みながら、家族のことや人の絡みの話をすれば、
心配事のひとつふたつ、いくつになっても抱えているもので、
それでも美味しいものを食べ、旨い酒を酌み、
ぜいたくを言えば、懐あたたかくなれる女性がそばにいれば
幸せなんじゃないかとうなずいた。
お腹いっぱいになり、良い加減で酔って店を出た。
みなみかぜ、行きましょうとの明るいお誘い受けて
若旦那行きつけのスナックへはしご酒となる。。
南風はきれいなママさんがひとりでやっている店で、
スナックなどというところへ来たのは、
ずいぶん久しぶりのことだった。
ビールを頼んだら、めずらしい、
キリンのハートランドの緑の瓶が出てきて
このビールを飲むのも久しぶりのことだった。
久しぶりついでにカラオケなんぞをやってしまい、
熊木杏里を歌ってしまった。
馴染みの焼き鳥屋のはな緒さんが一周年を迎えた。
年明けの四日、新年会をやりましょうと
近所の薬屋の若旦那と足を運んだ。
仕事始めの日で、店に入れば仕事帰りのおじさんたちが
すでににぎにぎしく一杯やっている。
新年と、一周年おめでとうの挨拶をして
カウンターに腰をおろした。
ビールで乾杯をすれば、次々と常連さんが入ってきて、
おめでとう、今年もよろしくと
お母さんとまりちゃんに挨拶をしてゆく。
年明け早々のいそがしさに、
お母さんは小鉢物を誂えたり、空いた器を洗いのけしたり、
まりちゃんは、串を焼いたり、燗酒やビールを運んだり、
親子でそっくりの丸い体がフル活動している。
あちこち串の注文が入るから、
煙をあおぐ団扇の威勢も増してくる
ねぎまとつくねとトマト巻き、豚バラをつまみながら
芋のお湯割りの杯をかさねる。
酌みながら、家族のことや人の絡みの話をすれば、
心配事のひとつふたつ、いくつになっても抱えているもので、
それでも美味しいものを食べ、旨い酒を酌み、
ぜいたくを言えば、懐あたたかくなれる女性がそばにいれば
幸せなんじゃないかとうなずいた。
お腹いっぱいになり、良い加減で酔って店を出た。
みなみかぜ、行きましょうとの明るいお誘い受けて
若旦那行きつけのスナックへはしご酒となる。。
南風はきれいなママさんがひとりでやっている店で、
スナックなどというところへ来たのは、
ずいぶん久しぶりのことだった。
ビールを頼んだら、めずらしい、
キリンのハートランドの緑の瓶が出てきて
このビールを飲むのも久しぶりのことだった。
久しぶりついでにカラオケなんぞをやってしまい、
熊木杏里を歌ってしまった。

卯の春
睦月 一
元旦の朝、菩提寺でお参りをして、善光寺へ初詣に出かけた。
朝の八時、すでにたくさんの人でにぎわっていた。
そのまま実家へ行き、父と母に新年の挨拶をして
早速の一献となる。
今年八十一歳になる父は、日本酒を、
こちらが二杯飲む間に三杯目を飲み始め、
今年も元気に晩酌してくれるのが何より安心の元と思う。
二日、三日は朝から箱根駅伝を見て過ごす。
往路、復路、200キロ余りのレースでは、
早稲田の一区の一年生が、あどけない顔をしているのに
後続を寄せ付けない速さがすごい。
最下位から追い上げた、
東海大の村沢君の十七人抜きも見事と見とれ
五区の山登りでは、柏原君の圧巻の走りにすごいなあと
ため息が出た。
27秒さで食らい付いていった早稲田の選手のねばりが生きて、
六区の下りで、転倒してもトップに立った高野君のリードから、
東洋大の追い上げを交わし、
ゴールするまで目が離せない展開だった。
十九位でゴールした、上武大の四年生は熊本出身で、
卒業したら地元の役場に就職して
陸上はこの箱根を最後にやめるという。
ゴールした後、コースにむかって
深々と、長くお辞儀をしている姿が印象的だった。
余韻にひたりながら、おそいお昼をとかんだたさんへ足を運んだ。
人ごみ避けて裏通りを抜けて行く。
店に入って御主人と奥さんに新年の挨拶をする。
混んでいるかと思いきやガラガラで、
今日は暇なのよおと奥さんがこぼす。
年明け最初の外飲みは、かんだたさんの生ビールと燗酒とあいなった。
迷いごとを持たぬこと。淡々と往くように。
どんな卯の年になるでしょう。
今年もよろしくお願いします。

元旦の朝、菩提寺でお参りをして、善光寺へ初詣に出かけた。
朝の八時、すでにたくさんの人でにぎわっていた。
そのまま実家へ行き、父と母に新年の挨拶をして
早速の一献となる。
今年八十一歳になる父は、日本酒を、
こちらが二杯飲む間に三杯目を飲み始め、
今年も元気に晩酌してくれるのが何より安心の元と思う。
二日、三日は朝から箱根駅伝を見て過ごす。
往路、復路、200キロ余りのレースでは、
早稲田の一区の一年生が、あどけない顔をしているのに
後続を寄せ付けない速さがすごい。
最下位から追い上げた、
東海大の村沢君の十七人抜きも見事と見とれ
五区の山登りでは、柏原君の圧巻の走りにすごいなあと
ため息が出た。
27秒さで食らい付いていった早稲田の選手のねばりが生きて、
六区の下りで、転倒してもトップに立った高野君のリードから、
東洋大の追い上げを交わし、
ゴールするまで目が離せない展開だった。
十九位でゴールした、上武大の四年生は熊本出身で、
卒業したら地元の役場に就職して
陸上はこの箱根を最後にやめるという。
ゴールした後、コースにむかって
深々と、長くお辞儀をしている姿が印象的だった。
余韻にひたりながら、おそいお昼をとかんだたさんへ足を運んだ。
人ごみ避けて裏通りを抜けて行く。
店に入って御主人と奥さんに新年の挨拶をする。
混んでいるかと思いきやガラガラで、
今日は暇なのよおと奥さんがこぼす。
年明け最初の外飲みは、かんだたさんの生ビールと燗酒とあいなった。
迷いごとを持たぬこと。淡々と往くように。
どんな卯の年になるでしょう。
今年もよろしくお願いします。
