上田 祇園祭
文月 四
近所の弥栄神社の祇園祭が、七月の暑いさなかに行われた。
無病息災を願う門前の夏祭りは、かつては毎年の行事だったという。
各町の大きな屋台が巡行し、それはそれはにぎやかだったという。
人手がたりなくなり、予算の見当も合わなくなって、
数年に一回の催しになっていたのを、
今年からは、ふたたび毎年の行事にしてゆくことになったのだった。
日を前後して、松代や須坂、まわりの町でも祇園祭がひらかれた。
祭りを通じて町に活気を呼び込みたい。
景気のわるいご時世は、そんな気持ちがよけいに増してくる。
土曜日、仕事をすこし早く終いにして、上田の祇園祭にでかけた。
一昨年初めて見物したことがある。
城下のそれぞれの町から神輿が繰り出して、中心街をねり歩く。
ひとつ手前の駅から枡酒持ったお父さんが乗ってきて、
おっ、もうやってますねとそそられる。
駅を出れば、ふだん静かな町並みにたくさんの見物客があふれている。
居酒屋の店先で生ビールを買って、のどをうるおしながら眺めれば
せいや、せいや、江戸流のかけ声もいさましく、紺屋町に材木町、
愛宕町に天神町に大手町、城下町の名残の町名の神輿がつづく。
どの町の神輿も見事なもので見応えがあり、
担ぎ手の方々の誇りが感じられる。
ゆっくり上田の町を歩くのは、一年ぶりでもなつかしい。
建物が高くないから視界が好い。
たてよこつづく細い小路には小さな店がいくつも並び、
連日行列のできる中華料理屋や、日本酒の揃えのいい飲み屋もある。
上田城あとの公園には緑が繁り、石垣に上ればせいせいと空も広い。
地方の町のおだやかさと、城下町の風情がこじんまりとまとまった
好い町なのだった。
ひとしきり祭りを楽しんで、久しぶりに気に入りの店でと思っていたら
空からぽつり当たってきて、しだいに降りがはげしくなってきた。
締めの一杯は長野にもどってからと切りかえて、駅へとむかった。
月が変われば今度は花火大会もある。
こちらも一年ぶりに来てみようかと思案する。

近所の弥栄神社の祇園祭が、七月の暑いさなかに行われた。
無病息災を願う門前の夏祭りは、かつては毎年の行事だったという。
各町の大きな屋台が巡行し、それはそれはにぎやかだったという。
人手がたりなくなり、予算の見当も合わなくなって、
数年に一回の催しになっていたのを、
今年からは、ふたたび毎年の行事にしてゆくことになったのだった。
日を前後して、松代や須坂、まわりの町でも祇園祭がひらかれた。
祭りを通じて町に活気を呼び込みたい。
景気のわるいご時世は、そんな気持ちがよけいに増してくる。
土曜日、仕事をすこし早く終いにして、上田の祇園祭にでかけた。
一昨年初めて見物したことがある。
城下のそれぞれの町から神輿が繰り出して、中心街をねり歩く。
ひとつ手前の駅から枡酒持ったお父さんが乗ってきて、
おっ、もうやってますねとそそられる。
駅を出れば、ふだん静かな町並みにたくさんの見物客があふれている。
居酒屋の店先で生ビールを買って、のどをうるおしながら眺めれば
せいや、せいや、江戸流のかけ声もいさましく、紺屋町に材木町、
愛宕町に天神町に大手町、城下町の名残の町名の神輿がつづく。
どの町の神輿も見事なもので見応えがあり、
担ぎ手の方々の誇りが感じられる。
ゆっくり上田の町を歩くのは、一年ぶりでもなつかしい。
建物が高くないから視界が好い。
たてよこつづく細い小路には小さな店がいくつも並び、
連日行列のできる中華料理屋や、日本酒の揃えのいい飲み屋もある。
上田城あとの公園には緑が繁り、石垣に上ればせいせいと空も広い。
地方の町のおだやかさと、城下町の風情がこじんまりとまとまった
好い町なのだった。
ひとしきり祭りを楽しんで、久しぶりに気に入りの店でと思っていたら
空からぽつり当たってきて、しだいに降りがはげしくなってきた。
締めの一杯は長野にもどってからと切りかえて、駅へとむかった。
月が変われば今度は花火大会もある。
こちらも一年ぶりに来てみようかと思案する。

大森の飲み屋さんで
文月 三
東京へ出かけた。
年一回の町内の旅行の行き先は、今年はスカイツリーに行くという。
朝から行列ができている東京の新名所に着けば
音もなくエレベーターが、あっという間に展望台へと運んでくれる。
都の街並みを見下ろして、ソラマチ商店街を散策してから
上野まで連れ立って行く。
上野公園の高台から、上ったばかりのスカイツリーがはるばる見えた。
公園の緑に囲まれた、老舗の鰻屋でお昼を満喫したあとは
帰りの新幹線の時間まで自由時間だという。
それぞれ、思い思いの行きたいところへ足を伸ばして楽しむこととなる。
東京へ来たといっても、時間があれば飲むしか楽しみがない。
日本橋の手ぬぐい屋で、手ぬぐい好きの友だちの土産を買い、
銀座のギャラリーで、フェルメールを眺めて時間をつぶし、
夕刻、そろそろ好い時間と大森まで出向いた。
大森駅の北口から徒歩三分。
馴染みの飲み屋の千酔さんの、東京育ちのみすみさんから教わった
吟吟の扉を開けた。
昼の鰻重が効いているから、つまみは軽いものでよい。
白身魚のカルパッチョを頼んでビールを飲んでいれば、
スタッフのお兄さんがにごり酒をすすめてくれたから一杯頂いた。
お蔵さんは?と尋ねれば、木曽の湯川さんだというから、
長野から来たのですと話のとっかかりができてありがたい。
二杯目をとお願いしたら、今度は川中島の幻舞を注いできた。
そちらにいらっしゃるのでというので見てみたら、
カウンターのひとつ置いた隣の席に、幻舞を手がける女性杜氏の
まりこさんがいておどろく。
声かけて、やあやあこんなところでお会いするとは世間はせまいと言い合い
幻舞の純米吟醸を口にすれば、東京で酌む故郷の酒もまた旨い。
宮城の日高見に、みすみさんおすすめの愛媛の賀儀屋と杯重ね、
締めの栃木の大那を飲み干して、
さすがに東京で酩酊しすぎるわけにはいかぬから、お先に失礼しますと
腰をあげた。
思いがけず知り合いに会え、信州の酒も堪能して、
初めての店でくつろげたのはなによりのことだった。
東京へ出かけた。
年一回の町内の旅行の行き先は、今年はスカイツリーに行くという。
朝から行列ができている東京の新名所に着けば
音もなくエレベーターが、あっという間に展望台へと運んでくれる。
都の街並みを見下ろして、ソラマチ商店街を散策してから
上野まで連れ立って行く。
上野公園の高台から、上ったばかりのスカイツリーがはるばる見えた。
公園の緑に囲まれた、老舗の鰻屋でお昼を満喫したあとは
帰りの新幹線の時間まで自由時間だという。
それぞれ、思い思いの行きたいところへ足を伸ばして楽しむこととなる。
東京へ来たといっても、時間があれば飲むしか楽しみがない。
日本橋の手ぬぐい屋で、手ぬぐい好きの友だちの土産を買い、
銀座のギャラリーで、フェルメールを眺めて時間をつぶし、
夕刻、そろそろ好い時間と大森まで出向いた。
大森駅の北口から徒歩三分。
馴染みの飲み屋の千酔さんの、東京育ちのみすみさんから教わった
吟吟の扉を開けた。
昼の鰻重が効いているから、つまみは軽いものでよい。
白身魚のカルパッチョを頼んでビールを飲んでいれば、
スタッフのお兄さんがにごり酒をすすめてくれたから一杯頂いた。
お蔵さんは?と尋ねれば、木曽の湯川さんだというから、
長野から来たのですと話のとっかかりができてありがたい。
二杯目をとお願いしたら、今度は川中島の幻舞を注いできた。
そちらにいらっしゃるのでというので見てみたら、
カウンターのひとつ置いた隣の席に、幻舞を手がける女性杜氏の
まりこさんがいておどろく。
声かけて、やあやあこんなところでお会いするとは世間はせまいと言い合い
幻舞の純米吟醸を口にすれば、東京で酌む故郷の酒もまた旨い。
宮城の日高見に、みすみさんおすすめの愛媛の賀儀屋と杯重ね、
締めの栃木の大那を飲み干して、
さすがに東京で酩酊しすぎるわけにはいかぬから、お先に失礼しますと
腰をあげた。
思いがけず知り合いに会え、信州の酒も堪能して、
初めての店でくつろげたのはなによりのことだった。

弘明寺商店街
文月 二
大学生のとき、横浜で暮らしていた。
母方の叔母さん家族がアパートを営んでいたから
ひと部屋を借りて世話になっていた。
叔母さんが亡くなったとの知らせを受けて、
お別れをしに久しぶりの町へと足を運んだ。
通夜までの空いた時間、ぶらぶら近所を散歩してみれば
見覚えのある町並みにも、いまどきのきれいなお宅が増えている。
銭湯や、夕方になれば近所のおばさんたちでにぎわっていた
ちいさな市場もなくなって、時間の流れがうかがえる。
近くに大岡川が流れていて、川沿いを行きながら、
春になれば桜並木の眺めが見事だったと思い出した。
年季の入った大岡小学校の校舎を過ぎて行けば
真言宗の古刹の弘明寺の前に出る。
弘明寺は横浜でいちばん古い寺だという。
京浜急行の弘明寺駅を通学に使っていて、
毎日門前を歩いていたのに、若輩の身はろくろく手を合わせることもせず
申しわけのないことだった。
急な階段を上り本堂で手を合わせた。
すこし上がっただけで町のざわめきが遠くなり、
暑さがしずかに染みてくる。
弘明寺の前からまっすぐにアーケードが伸びて、いろんな店が立ち並ぶ。
二軒並んだパチンコ屋からにぎやかな音がする。
かまぼこ屋の店先で、きれいな店員さんが呼び込みをしていた。
古い洋食屋に、和菓子屋に洋菓子屋、洋服屋に着物屋に
美容室も四軒あって、横浜らしく中華料理屋の数が多い。
惣菜の旨そうな肉屋に、寿司屋に蕎麦屋に焼き鳥屋。
二軒ある酒屋はどちらも酒の品揃えが好く、感心をした。
土曜日の昼どき、買い物客の姿も多く活気がある。
暮らしていたころは、ただただ通り道にしていただけで
店先を覗くこともしなかった。
通り一本で何でも間に合う商店街に下町のおおらかさもあって、
また暮らしてみたいものですと、三十年近くもたって気が向いたのは
なさけのないことだった。

大学生のとき、横浜で暮らしていた。
母方の叔母さん家族がアパートを営んでいたから
ひと部屋を借りて世話になっていた。
叔母さんが亡くなったとの知らせを受けて、
お別れをしに久しぶりの町へと足を運んだ。
通夜までの空いた時間、ぶらぶら近所を散歩してみれば
見覚えのある町並みにも、いまどきのきれいなお宅が増えている。
銭湯や、夕方になれば近所のおばさんたちでにぎわっていた
ちいさな市場もなくなって、時間の流れがうかがえる。
近くに大岡川が流れていて、川沿いを行きながら、
春になれば桜並木の眺めが見事だったと思い出した。
年季の入った大岡小学校の校舎を過ぎて行けば
真言宗の古刹の弘明寺の前に出る。
弘明寺は横浜でいちばん古い寺だという。
京浜急行の弘明寺駅を通学に使っていて、
毎日門前を歩いていたのに、若輩の身はろくろく手を合わせることもせず
申しわけのないことだった。
急な階段を上り本堂で手を合わせた。
すこし上がっただけで町のざわめきが遠くなり、
暑さがしずかに染みてくる。
弘明寺の前からまっすぐにアーケードが伸びて、いろんな店が立ち並ぶ。
二軒並んだパチンコ屋からにぎやかな音がする。
かまぼこ屋の店先で、きれいな店員さんが呼び込みをしていた。
古い洋食屋に、和菓子屋に洋菓子屋、洋服屋に着物屋に
美容室も四軒あって、横浜らしく中華料理屋の数が多い。
惣菜の旨そうな肉屋に、寿司屋に蕎麦屋に焼き鳥屋。
二軒ある酒屋はどちらも酒の品揃えが好く、感心をした。
土曜日の昼どき、買い物客の姿も多く活気がある。
暮らしていたころは、ただただ通り道にしていただけで
店先を覗くこともしなかった。
通り一本で何でも間に合う商店街に下町のおおらかさもあって、
また暮らしてみたいものですと、三十年近くもたって気が向いたのは
なさけのないことだった。

お別れをしに
文月 一
叔母が亡くなった。母の腹ちがいの姉で、
その昔、祖父が姉嫁に手を出して生まれた人だった。
建具職人をしていた祖父は当時羽振りがよく、権堂、湯田中、別所温泉、
あちこちで豪遊していたという。
酒は一滴も飲めないくせに、その分色気のほうが盛んだった。
あちこちにお妾さんがいたというから、
その体力気力を、できれば孫にも分けていただきたかったと
うらやましい。
女の人には不自由をしていなかったのに、
同居していた兄嫁に手を出したりするからややこしい。
おばさんを生んだあと、兄嫁は離縁され、嫁いできた祖母がかわりに育ててきた。
血のつながらない親子はなにかとうまくいかないことが多く、
おばさんは十七歳のときに家出をして横浜へ行ってしまったのだった。
横浜ではカフェの女給さんをして生計を立てていたという。
祖父ゆずりの明るくてにぎやかな人柄はたちまち人気者になり、
男の人にもずいぶんもてたという。
立教大学のお金持ちの学生と同棲をしたり、
箱根のおおきな薬屋の息子と割りない仲になったり、
船乗りだったおじさんと知り合って結婚してからは身もおちついて、
ずっと横浜の下町で暮らしていた。
通夜の晩、次から次へとお参りに来られる人の姿がつづく。
近所の方から世話になっていた施設の方。
ずいぶん若い方にも来ていただき、交友関係の広さに思い出す。
たびたび母に電話をよこしては、りんごやおやきや蕎麦を
送ってくれるよう頼んでいた。
そのたびに、そんなにたくさんと思えるほどの数だったから、
日ごろ付き合いのある人に、なにかにつけては
故郷の味をおすそ分けしていたとわかる。
言いたいことをずばずば口にして、細かいことは気にせずに
情にもろくて、人との付き合いが大好きだった。
大きな病気をして体の自由が利かなくなっても、
毎日ドトールコーヒーに出かけては、馴染みの方たちとのひとときを
楽しんでいたという。
去年九十六歳。前の晩まで元気だったのに、
朝、布団の中で息を引きとっていたという。
おばさんらしいさっぱりとした逝きかたとしみじみ思う。

叔母が亡くなった。母の腹ちがいの姉で、
その昔、祖父が姉嫁に手を出して生まれた人だった。
建具職人をしていた祖父は当時羽振りがよく、権堂、湯田中、別所温泉、
あちこちで豪遊していたという。
酒は一滴も飲めないくせに、その分色気のほうが盛んだった。
あちこちにお妾さんがいたというから、
その体力気力を、できれば孫にも分けていただきたかったと
うらやましい。
女の人には不自由をしていなかったのに、
同居していた兄嫁に手を出したりするからややこしい。
おばさんを生んだあと、兄嫁は離縁され、嫁いできた祖母がかわりに育ててきた。
血のつながらない親子はなにかとうまくいかないことが多く、
おばさんは十七歳のときに家出をして横浜へ行ってしまったのだった。
横浜ではカフェの女給さんをして生計を立てていたという。
祖父ゆずりの明るくてにぎやかな人柄はたちまち人気者になり、
男の人にもずいぶんもてたという。
立教大学のお金持ちの学生と同棲をしたり、
箱根のおおきな薬屋の息子と割りない仲になったり、
船乗りだったおじさんと知り合って結婚してからは身もおちついて、
ずっと横浜の下町で暮らしていた。
通夜の晩、次から次へとお参りに来られる人の姿がつづく。
近所の方から世話になっていた施設の方。
ずいぶん若い方にも来ていただき、交友関係の広さに思い出す。
たびたび母に電話をよこしては、りんごやおやきや蕎麦を
送ってくれるよう頼んでいた。
そのたびに、そんなにたくさんと思えるほどの数だったから、
日ごろ付き合いのある人に、なにかにつけては
故郷の味をおすそ分けしていたとわかる。
言いたいことをずばずば口にして、細かいことは気にせずに
情にもろくて、人との付き合いが大好きだった。
大きな病気をして体の自由が利かなくなっても、
毎日ドトールコーヒーに出かけては、馴染みの方たちとのひとときを
楽しんでいたという。
去年九十六歳。前の晩まで元気だったのに、
朝、布団の中で息を引きとっていたという。
おばさんらしいさっぱりとした逝きかたとしみじみ思う。
