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辰の年の終わりに。

2024年12月25日

 へこりと at 06:17  | Comments(2)

師走 7

今年も日本のあちこちで災害が起きた。元日、巨大な龍が能登半島で
暴れた。土砂が崩れ津波が押し寄せ、大きな火災が起きて、家屋がつぶれ、
たくさんの犠牲者が出てしまったのだった。よりによって一年の始まりの、みんなが明るく穏やかに祝いの気持ちでいるところに襲った災害だった。
悲惨な年明けに、能登のかたがたの心情を思うとなんともやりきれない
気持ちになった。
仮設住宅が出来て、避難所での窮屈な暮らしから解放されたと
思ったら、九月には再び天の龍にやられた。豪雨によって川が氾濫して、
道路が冠水して、家々に水があふれ、またしても犠牲者が出てしまった。
十月に、能登半島の入り口、七尾に行ってみたら、JRの七尾駅から港まで、わずか800mの通りのあちこちに、地震で壊れた家屋があちこちにあり、
重機で壊されている家屋もあった。
元日から遅々として進んでいない復旧を見て、暗い気分になってしまった。
ユーチューブを開いては、能登の様子を観ている。
水道に電気にガス、この年末に来てようやく使えるようになった地区が
あり、復旧が進んでいないのだった。
能登地震がずっと頭から離れない、そんな辰の年だった。
毎年、景気が悪く貯えもなく、この先どうなるかと思うと、バカ酔っぱの
お気楽な身でも、不安がつのって来る。
それでも、借金もなく住む家があり、毎日好きなものを飲み食い出来て、
暖かな布団で寝られること。どれだけ有難いことか、よくよく感じた一年
だった。
能登のかたがたはどんな気持ちで新たな年を迎えるのだろう。
壊れた家屋の片づけをするかたや、仮施設で商売を再開した輪島の
朝市のかたや地元の商店のかた、ご家族を亡くされたかた、あれだけの
つらい思いをしたのに、皆頑張ります、頑張らなきゃと笑顔を見せる。
ほんとに頭が下がる思いになる。
冬の寒さが増してくる。能登のかたがたはこの一年、心身多大な無理を
かけてきた。年が明けてもまだそんな暮らしが続いていく。
どうか無事に乗り切っていけますように。
巳の年、気持ちを込めて祈りたい。
一年間親しくさせていただいた皆さん、ありがとうございました。
良い巳の年を迎えられますよう。

被災地へ思い重ねて年の果て。





  


有難い気持ちに。

2024年12月24日

 へこりと at 08:31  | Comments(4)

師走 6

平日の昼どき、暇にまかせてユーチューブを覗いていたら、
ごめんくださいと年配の男性が訪ねてきた。
はて、どなたかなと腰を上げたら、やまとも庵ですと
名乗られたのだった。あ~っ、そうだそうだ、やまとも庵の
御主人だと思い出し、慌てて挨拶を返した。
長野電鉄、本郷駅から北へ上がった道沿いに、「やまとも庵」
という蕎麦屋が在った。若い頃近所に住んでいて、
蕎麦屋の昼酒、夜酒にしょっちゅう暖簾をくぐっていた。旨い
蕎麦と酒と肴もさることながら、御主人と女将さんの温かな接客に、
いつも癒されていた。
ところが、善光寺の近くに現在の仕事場兼住まいを構えてからは、
何年もご無沙汰続きになってしまった。そんな今年の秋、
「やまとも庵」が閉店するという知らせを受けたのだった。
足が遠のいていたとはいえ、さんざん世話になった店だった。
閉店前に、お礼かたがた菓子折りを持って、最後の昼酒にうかがった。
後日そのことをブログに書き上げたら、たまたま御主人が見つけて
くださったのだった。
ブログに書いて頂きありがとうございますと、店で使っていた名入り
のどんぶりと、松本の菓舗、開運堂の和菓子を持ってきてくださった。
それにしても、よくこちらの住まいがわかりましたねと尋ねたら、
プログラマーをしている娘婿に探してもらったという。
きっと過去のブログから、住まいの在りかや仕事を探し当ててくれた
ことと思う。
手間をかけてわざわざ訪ねて来てくださった気持ちが嬉しくて、胸が
温かくなった。
どうぞ女将さんとゆっくりと新年を迎えてくださいと、お礼を述べて
うしろ姿を見送った。
今年は年明けから、しくじりごとが多かった。自己嫌悪に陥ることが
いくつかあって、人さまにも迷惑をかけてしまった。
そんなバカ者でも、見限ることなく付き合ってくれる身近なかたがたが
いてくれたおかげで、温かな気持ちで一年を過ごすことが出来たの
だった。後日、「やまとも庵」のホームページを覗いてみたら、
閉店の知らせとお客への感謝の言葉と共に、我が身のブログが紹介されて
いた。懐かしいかたの温かな人柄がしみじみ染み入ったのだった。

燗酒やしくじり数多悔い数多。
https://yamatomoan.com/


  


ユネスコ無形文化遺産を。

2024年12月20日

 へこりと at 09:30  | Comments(2)

師走 5

冬の初め、甥っ子夫婦が長野にやって来た。
旬の新蕎麦詣でに来たのだった。着いた日の夜は、長野駅前の
飲み屋で杯を交わし、翌日の昼どき、善光寺仲見世の蕎麦屋、
「丸清」におじゃまして、ロースかつをつまみにエビスを
飲んで、新蕎麦で締めた。
夕方どき、町なかの温泉施設、権堂温泉の柔らかな湯に浸かり、
体を温めたら、権堂アーケードの蕎麦居酒屋、「二本松」に
おじゃました。
この店に来るのはずいぶん久しぶりだけれど、御主人は相変わらず
にこにこと感じが好く、アルバイトの学生も、皆きびきびと動き
回っていて気持ちが好い。料理を突っつきながら蕎麦焼酎の
蕎麦湯割りの杯を重ねて、新蕎麦で締めたのだった。
翌日の昼どきには、自宅から西へ300mの場所に在る、「戸隠つきや」
におじゃました。
あれこれ長野の地酒の杯を重ね、戸隠の新蕎麦で締めた。
二泊三日の間、よく蕎麦屋で飲んだことだった。
日を置いた十二月中旬、西の街に暮らす友だちからメールが届く。
本日、松本に行く予定です。よければ一献をとのお誘いだった。
特急しなのに飛び乗って松本に着いたら、気に入りの、四柱神社の
そばに在る居酒屋、「深酒」に予約を入れて、日の沈むころに
落ち合って、旨い肴で久しぶりの杯を交わし、おおいに酔ったのだった。
そんなふうに酔っ払って、すっかり飲み疲れていたら、嬉しいニュースが
飛び込んできた。
このたびユネスコの無形文化遺産に、日本の酒造りが選ばれたという。
親しいお蔵さんから、米の出来具合や気候の様子に予期せぬことがあったり、過労による体調不良に見舞われたり、これまで何度も造りの苦労話を
うかがっていた。
旨い味を醸すために努力を重ねる、お蔵さんがたの真摯な
姿勢が世界に認められたかと思うと、酒好きの身も嬉しくなった。
国内での日本酒の出荷量は減っているものの、海外への出荷量は
増えていて、地元長野でも、海外に輸出をしているお蔵さんがある。
和食だけでなく、フレンチやイタリアンに合う味も増えている。
身近でも、善光寺へ観光に来た外国人が、夜ともなれば繁華街の飲み屋に
陣取って、日本酒をがばがばやっている姿が今や当たり前の光景になって
いる。
旨い酒をたくさん飲んで、旅の好い思い出になればと眺めている。
今年もあとわずか。飲みすぎた一年の反省をしながら締めの酒を酌むことと
する。

飲み疲れ重ね重ねて師走かな。




  


笑いと歌のひとときに。

2024年12月17日

 へこりと at 09:14  | Comments(0)

師走 4

友だちに、ライブに行こうと誘われた。
コロッケと美川憲一が長野に来るというのだった。
父と二人で行くはずだったのに、最近腰を痛めて
動けなくなってしまった。余分になったチケットを
こちらに割り当ててくれたのだった。
当日、会場のホクト文化ホールに行くと、年配の
男女のかたがたが会場に吸い込まれていく。
ステージの両脇からど派手な衣装のお二人が登場すると、
歓声に包まれた。二人の掛け合いが続いたあと、
コロッケのものまねメドレーが披露され、かつてテレビで
観た覚えのある、岩崎宏美や五木ひろしや森進一の
ものまねに、会場が賑やかな笑いに包まれる。
続いて登場した美川憲一は、柳ヶ瀬ブルースや新潟ブルース、
若い頃のヒット曲を披露した。
柳ヶ瀬ブルースがヒットしたのは、こちらがまだ子供の頃
だったのに、けっこう覚えている。
あああ~ああ、やながせのよる~にないている~。
ヒットしてから、歌番組でたびたび歌っていたのが、
幼いころの記憶に残っていたのだった。
美川憲一もずいぶんお歳を召されたのに、歌声に張りがある。
ステージを歩く足取りにお歳を感じる
ものの、凛としている姿がかっこよかった。
そのあと再びコロッケのものまねがあり、また大きな笑いが
沸く。笑いを取るために芸にあれこれ工夫をこらしてきた
けれど、以前とちがって最近は、コンプライアンスが厳しくて
出来ない芸もあるというのだった。
再び現れた美川憲一の、尊敬する越路吹雪の愛の賛歌が胸に
染み入って、さいごはさそり座の女を二人で熱唱して、
笑いとほれぼれする歌声のひとときが終わった。翌日、
美川憲一を調べてみたら、ヒット曲を連発したあとに、大麻で
二度捕まって、それをきっかけに人気が落ちた。
ところがそれからしばらくしたら、テレビでいろんな
タレントのものまねブームが始まって、
コロッケのものまねで再び人気に火がついたのだった。
七年前に左足を骨折して、三時間に及ぶ手術を受けていた。
足取りのおぼつかないのはそのせいだったかと合点がいった。
ライブの様子を思い出せば、嬉しそうに笑顔ではじけている
会場のおじいちゃのばあちゃんの姿が目に浮かぶ。
お二人の華々しいステージがみんなに元気をくれたこと
だった。

柳ケ瀬や淑女の涙冬の月。




  


シンペイ歌こそすべてを。

2024年12月13日

 へこりと at 10:07  | Comments(2)
師走 3

日曜日の夕方、上田へ出かけた。駅を出てそのまま
馴染みの飲み屋の「幸村」の暖簾をくぐった。
カウンターの奥の席に落ちついて、まずは一番搾りで
のどを潤した。この店はありがたいことに、年中無休で
夕方の四時から営業している。常連さんや、出張や観光で
来た県外のお客でいつも賑わっているのだった。
軟骨焼きをつまみに、二階堂のロックをちびちびやって
いたら、隣の席に、年配の男性が着席された。
店の御主人と親しげに話されているから常連さんと察しが
ついた。すると、こちら映画監督の神山征二郎さん。
シンペイを作った人と紹介されたのだった。この頃上映が
始まった「シンペイ歌こそすべて」は長野県中野市出身で、
「しゃぼん玉」や「てるてる坊主」の童謡や、歌謡曲の
「カチューシャの唄」や「東京行進曲」の作曲家、
中山晋平の生涯を綴った作品だった。神山監督は
上田市在住で、ずっと中山晋平の作品を作りたかったという。
ここでひとつ、長い間の疑問が解けた。監督が座っている
L字型のカウンターの、いちばん奥の席はいつも空けてある。
どうしてお客を座らせないんだろうと不思議に思っていた
ところ、なるほど、この席は神山監督の定席だったのだと
わかった。明日、観に行ってきますと挨拶をして店を後に
した。
翌朝、上田城跡公園の紅葉を眺めに出た。今年はどこも
色づきが遅いから、公園のケヤキ並木も今が見頃と
あたりをつけて行ったら、すでにすっかり葉が落ちていた。
公園内が落ち葉に埋まり、かろうじてイチョウの黄色が
冴えていた。
お堀のまわりをひと回りして、時間を見計らって、
東宝シネマズ上田へ出かけた。
映画の中には城跡公園や招魂社など上田の景色があちこち
出てきて、「幸村」もロケに使われていた。神山監督の
上田愛が感じられたのだった。
後日、神山監督について調べてみたら、覚えのある有名な
作品を数多く作っていて、たくさんのコンクールで受賞も
されているかただった。知らぬこととはいえ、一献の席を
ご一緒していただいて、まことに申しわけのないことだった。

空き席の意図ようやくに冬の暮。







  


腕時計に思いを。

2024年12月06日

 へこりと at 09:32  | Comments(2)

師走 2

七年前に父が亡くなったときに、遺品を片付けて
いたら、古い腕時計が出てきた。友だちのつてで直してくれる
時計屋が見つかって修理をお願いした。
金属製のベルトを薄茶色の革のベルトに変えてもらい、
オーバーホールをしてもらい、以来、無事に動いている。
昭和三十五年のセイコー・クラウンは当時の高級腕時計だった。
薄給の公務員だった父に買える代物ではないから、美容師として
羽振りの良かった母に買ってもらったと察しがつく。
皮のベルトがくたびれてきたので、新調した。このたびは
青色のベルトにしたら、古い時計の表情も若返り、嬉しいことだった。
初めて腕時計を着けたのは高校生のときだった。父が
仕事場の宴会の余興でくじに当たり、その当時出回り始めた
ばかりのデジタル時計をもらってきたのだった。
今のようにいろいろな機能が付いているわけではなく、
ただ時間を示すだけの重たい時計だった。高校生のときに
部活で陸上をやっていた。時計を使い始めてしばらく経った
夏のある日、練習場で着替えをしたときに、時計を外したまま
その場に忘れてしまった。運が悪いことに、その日の晩から
雨が降った。翌日練習場へ行って時計を確かめたら、雨に濡れて
画面がすっかり消えていた。
大学生だったときに、兄に買ってもらったことがあった。
シチズンの、文字盤とデジタルの両方が付いていたモデルだった。
大学生のときに一時、部活でバスケットボールをやっていた。
試合のときに、会場の更衣室で着替えたときに、うっかり
外したまま置き忘れた。しばらくして慌てて引き返してみたら、
すでに盗られた後だった。以来、長らく時計を着けることは
なかった。運動不足解消にランニングを始めるようになってから、
再び着け始めたのだった。
水仕事をするので、仕事中は防水の効いたカシオのG-ショックを
使っている。
もうひとつセイコーの時計を持っている。二年前の還暦の折り、
同業の友だち二人から贈られたものだった。還暦に合わせて
文字盤が赤色で、思いがけぬ気遣いに胸が温かくなって、
ありがたく使わせてもらっている。
そういえば友だち二人、それぞれいくつになるんだっけ?
還暦になったらお祝い返し、年齢を確かめておかなきゃいけない
のだった。

冬うらら形見の時計腕に巻き。



  


焼き鳥詣でに。

2024年12月03日

 へこりと at 13:23  | Comments(2)

師走 1

先日飲み仲間のかたがたと、初めての焼き鳥屋に伺った。
ちょいと前に開店した店で、入口にぽつっと灯りが置いてあり、
看板もなく、暖簾に屋号がささやかに描いてある。
焼き鳥屋というよりも、小料理屋のような構えの店だった。
当日、おじゃまして暖簾をくぐったら、店内もこざっぱりとした
雰囲気で、一見焼き鳥屋とは思えない。
カウンターの奥のテーブル席に落ちついて、ビールで乾杯をして、
お通しを突っついていたら、奥の部屋から白衣姿のご主人が出て
きて、我々の前を黙って通り過ぎて行った。しばらくしたら、
同じく白衣姿の男性も黙って通り過ぎて行った。
ハイボールを飲みながら、焼き鳥やサラダを食べていたら、
三本目のつくねに思わず目が留まる。目の前のかたに置かれた
つくねが明らかに焼き過ぎで、串に刺さった三つのうちの
ひとつの実の半分近くが真っ黒に焦げていたのだった。
ふつう、こんなのお客に出せないだろうと、店の雰囲気に
そぐわない焼き鳥に啞然としてしまった。
愛想がないのか寡黙なのか、店を出る際にもこれといった挨拶もなく、
店の雰囲気と料理と御主人がたの態度が、なんともちぐはぐな店
だった。
焼き鳥の油がつよい感じがして、元来胃腸の弱い身は、案の定
帰り道で、腹の具合ががおかしくなって焦った。
結局いちばん印象が好かったのは、アルバイトの大学生の
男の子の、笑顔のはきはきした接客だった。
ひとりで飲みに行くのは、縁あって常連になった馴染みの店
ばかりで、どこの店でも気の置けないひとときを頂いている。
そんな中、この秋珍しく初めての店におじゃました。長野市の
権堂アーケードの映画館、長野ロキシーの入り口に在る、
「まると」という名の焼き鳥屋だった。
酒屋を営む友だちがいて、この秋に権堂アーケード界隈で
日本酒のイベントを行った。それに参加してくれたのだった。
イベント前に、どんな店か気になっておじゃましたら、
カウンター越しにかわいい女の子が迎えてくれた。焼き鳥を
食べながら、ビールと焼酎を飲みつつイベント絡みの話を
すれば、明るい笑顔の受け答えが好い。
焼き鳥を焼いているご主人も、手が空くと話し相手に加わって
くださり、気遣いがうかがえた。
ときどきおじゃましたいことと思ったのだった。

焦げ過ぎのつくね眺める寒さかな。