軽井沢でランチを
如月 8
軽井沢へ出かけた。
洋画家、藤田嗣治の作品を展示している
安東美術館が、展示作品入れ替えのために、
しばらく休館するという。その前に、
拝見しておこうと出かけたのだった。小雨交じりの
寒い日で、軽井沢駅を出ると、さらに空気が
冷え込んでいる。矢ヶ崎公園の氷の張った池に
鴨が二羽、暇そうに佇んでいた。
池に沿って歩いていると、わきの広い通りの看板が目に
留まった。何の店かと近寄ってみたら、
お食事 フレスガッセと描いてある。
店を見たら、ツタの絡まった年季の入った
プレハブ造りで、
看板がなかったら通り過ぎてしまう構えだった。
相当な老舗なのかなといぶかりながら美術館へ向かった。
久しぶりに、藤田さんの深い乳白色の少女たちに触れて、
美術館を出て歩いて行くと、東急ハーヴェストクラブから、
赤い傘を差した泊り客が、ぞろぞろと旧軽銀座に向かって
歩いて行く。後について行くと、観光客の姿がまばらで、
通り沿いの店も、どこもシャッターを下ろしている。
いつも混んでいる蕎麦屋の川上庵も、この日は客が少ない。
蕎麦屋の昼酒とちらっと思ったものの、どうも
さっきのフレスガッセが気になってしょうがない。
通りを引き返して店の前まで来ると、高崎ナンバーの車と、
諏訪ナンバーの車が停まっている。
店に入ると、二人連れの先客が二組と男性がひとり、
食事をしていた。品書きを見たら、ソーセージにハムに
ハンバーグなど洋食の店だった。しかもすべて自家製という。
ハムステーキを注文して、
エビスを飲みながら店内を眺めれば、テーブル席が四つ、
その奥には座敷がある。壁にはいろんなポスターや
チラシが貼られ、棚のいたるところに、外国製とおぼしき
人形が飾ってある。
どれも古色蒼然として店の古さを感じさせているのだった。
華やかな軽井沢の町の中で、この店だけ昭和で時間が
止まっていて落ちつく。
運ばれてきたハムステーキを見たら、予想外に量が多い。
肉が柔らかく塩加減も好く、まことに美味しかった。
ナポリタンも食べるつもりでいたのに、
腹いっぱいになり、あきらめた。
店のかたの接客も気持ちが好く、
締めのホットウイスキーで体を温めて、
また寄らせてくださいと言って店を出た。
三月、展示替えの済んだ美術館へ来た折りは、
即決のナポリタン。決めたことだった。
迷わずにナポリタン食う弥生かな。
古い友だちと
如月 7
同じ歳の友だちがいる。
還暦を迎える記念に作った手拭いを
頂いたのだった。
紺地の右に浅間山、左側に北アルプスが描かれており、
真ん中に邂逅の文字がある。
山登りが趣味だった友だちらしい柄だった。
邂逅にはめぐり合うという意味がある。
出会ったのは、小学校四年生の時のクラス替えで、
そのあと中学校の三年間も同じクラスで過ごした。
高校と大学は、頭の出来がちがいすぎて、あちらは
長野県いちばんの進学校から、有名大学へ進んで、
しばらく音信が途絶えたものの、卒業して、
ともに長野に戻ってきてから、ふたたびの交流が
今につづいている。出会って五十年。
浮き沈みの有る人の縁の中で、変わらぬ付き合いは
まことにありがたいことだった。
毎晩日本酒を酌んでいる。酒との縁が出来たのも、
この友だちのおかげだった。
それまで日本酒というやつは、飲めばかならず
ひどい二日酔いになる、不味いものだと敬遠していた。
ところがこの友だちが宮城へ出かけた折りに買ってきた、
地元の一ノ蔵という酒を飲んだところ、これが
大変旨くて驚いた。以来、日本酒に開眼して、
だらしのないヨッパになってしまった。
寝酒にウイスキーをなめている。これも友だちの
おかげだった。
イギリスに出かけたときに、スコッチウイスキーの
グレン・リベットを買ってきた。その旨さに驚いて、
以来、ウイスキーにも開眼して、だらしのないヨッパに
なってしまった。
そのように酒の道すじをつけてくれたのに、肝心の本人は、
何年か前に持病の手術をしたところ、お医者に酒を
禁じられてしまった。以前のように、ともに旨い杯を
交わしたいのに果たせないままでいる。
なまじ医者などにかかるものではないと、つくづく
思った次第だった。
この三月でながらく仕えてきた会社を定年退職する。
長野県のあちこちで仕事をして、その時々で、
くせの強い上司に遭遇したり、予想外の事故が起きたり、
気苦労かさなる出来事に見舞われていた。
二十五年前の長野オリンピック開催の折りは、
組織委員会の一員として、陰で運営を支えていた。
あのときはほんとに大変そうだったなあと、
疲労困憊していた様子を思い出す。
春からは第二の勤めに出るという。
それまで,ゆっくりひと区切りのひとときを
過ごせればと思うのだった。
邂逅の月日かさねてこの春を。
仕掛人・藤枝梅安を
如月 6
作家の池波正太郎が、生誕100年を迎える。
映画、仕掛人・藤枝梅安が公開された。
その昔、鬼平犯科帳を読んでから、このかたの
作品を愛読するようになったのだった。
鬼平犯科帳に仕掛人・藤枝梅安、剣客商売に、
上田市ゆかりの真田太平記など、全巻文庫本で揃え、
なんど読み返しても飽きることがない。
鬼の平蔵と呼ばれた火付け盗賊改め方長官、
長谷川平蔵と、ともに働く部下や密偵とのやりとりは、
ときに厳しく、ときには慈愛に満ち、下手な指南書を
読むよりも、よほど会社の上に立つかたがたに
読んでもらいたいほどだった。
仕掛人・藤枝梅安は、これまでテレビや映画で何度か
放送されて、緒形拳に小林桂樹に萬屋錦之介などが
梅安さんを演じてきた。
鍼医者の梅安さんと、相棒の楊枝職人の彦次郎が、
生かしておいては、世のためにならぬ奴を始末する。
もう30年も前、渡辺謙が梅安さんを、橋爪功が
彦さんを演じていた。
ふたりとも原作の風貌によく合っていて、毎週
楽しみに観ていたのだった。
最近BSフジで、岸谷五朗演じる梅安さんを
再放送しているけれど、岸谷五朗じゃあないんだよなあ。
違和感があって観ていない。
このたびの映画では、梅安さんを豊川悦司が、彦さんを
片岡愛之助が演じている。
物語は、おんなごろしと梅安晦日蕎麦という、ふたつの
短編をつなげたものだった。
原作に比べると、所々話の筋を変えてあり、
いらない場面があったり、省いてほしくなかった場面が
あったりしたものの、豊川悦治も愛之助も、独特の
雰囲気を出していた。
悪役を演じた天海祐希の、啖呵を切って
男をさげすむ演技も好かったし、梅安さんの愛人役を
演じた菅野美穂の、はかなげな色気も好かった。
池波さんの作品は、話の最中にたびたび食事の場面が
出てくる。このたびも梅安さんと彦さんが、
鍋を突っつき、言葉少なげに杯を交わす場面がある。
闇稼業を背負う男の暗さと切なさがにじみ出て
いたのだった。
四月に第二作が上映される。エンドロールの終わりに、
その予告が流れた。次回は彦さんが妻と子供の仇を打つ、
秋風二人旅だね。
今から楽しみなことだった。
黄八丈まとう鍼医者春入日。
サントリー・オールドを
如月 5
ときどき、ウイスキーを飲んでいる。
若いときは、
もっぱら日本酒とビールだけだった。
その頃イギリスに出かけた友だちが、
スコッチウイスキーを買ってきた。
グレン・リベット12年。
友だち宅で御相伴に預かったら、その旨さに
感嘆して、飲むようになったのだった。
その頃は、マッカランやグレン・リベット、
グレン・モーレンジなどのスコッチに、
山崎、白州、余市に宮城峡などの国産と、
上等な銘柄ばかり買っていた。かつて、
懇意にしている日本酒の蔵元さんが、
若いときは吟醸など上等な酒を飲み、
歳を重ねたら、安い普通酒に戻るのが粋な
酒飲みと言っていた。
この頃は気が向けば、コンビニで
ブラック・ニッカなんぞを買うときもある。
肩ひじ張らず、枯淡の境地で酒のひとときを。
それが好い歳になっている。
久しぶりのかたが訪ねて来た。開口いちばん、
これ飲んでと紙袋を渡された。
中身を見たら、サントリー・オールドが入っている。
息子さんが会社を経営していて、お中元とお歳暮に
酒をもらうことがある。お歳暮にウイスキーを
もらったものの、息子はビールと焼酎しか
飲まない。御好意をこちらに回してくれたのだった。
サントリー・オールドは懐かしい。
子供の頃、台所の戸棚に置いてあり、ときどき父が
飲んでいた。
その頃はまだ山崎も白州も出ていなかったから、
サントリーの高級ウイスキーの位置づけだった。
薄給の父が自ら買ったとは思えないから、
おそらく美容師として羽振りの良かった母が、
知り合いから頂いたものかと想像がつく。
オールドのCMがなかなか好くて、内村準や
長塚京三、田中裕子がしみじみとした
味を出していた。
恋は、遠い日の花火ではない。
ユーチューブで再見したら、やはり田中裕子の
静かで切なげな佇まいが好い。好いなあ。
子供の頃から目にしている、通称ダルマと呼ばれた
黒いボトルは、口にするのは初めてだった。
ショットグラスに注いで利いてみたら、爽やかな
樽香を感じさせる、やや乾いた麦の味がする。
寒い夜、お湯割りにして飲んだら、甘みが
すっと伸びて旨い。調べてみたら
二年前に、日本洋酒組合が、日本ウイスキーの
定義を定めたという。
原材料は麦芽を必ず使用する。
日本国内の水を使用する。
国内の蒸留所で蒸留する。
原酒を700リットル以下の木樽に詰め、日本国内で
3年以上貯蔵する。
日本国内で瓶詰めする。
オールドもこの定義に当てはまるという。
二千円でお釣りがくるのに良心的なこと。
感心しながら、早々にボトルを空けたのだった。
寒明けやダルマのお湯で迎えおり。
#壁を撮る人
如月 4
出かけるとき、カメラをぶら下げていく。
遠く近く、目に留まった景色を写真に収めている。
毎朝、近所の善光寺に参拝している。
道すがら、彼方の清掃工場の、煙たなびく眼下の町なみを
撮ったり、参拝客まばらな石畳の参道を撮ったり、
開店間際の土産物屋の店先を撮ったり、
おなじ景色を何度となく撮っていても飽きることがない。
暮らしに馴染んだ景色には、尽きぬ心地好さがあるのだった。
暇つぶしにパソコンを開いてNHKプラスを覗いたら、
「#壁を撮る人」という番組が有った。
壁の写真ばかりを撮っている女性の話だった。
歳の頃は二十代半ばから後半か。クリーニング店で
働くかたわら、休日になるとカメラをぶら下げて、
暮らしている長崎の町の、ビルや家屋の壁を撮っている。
以前大阪に旅行したときに、華やかな都会の建物に
圧倒されて、気がついたら建物の写真ばかりを撮っていた。
それが壁を撮るきっかけになったという。
アスパラというペンネームでツイッターとインスタグラムで
作品を公表していて、人気を集めているのだった。
プロの写真家がフォローしたり、地元の塗装会社の広告の
依頼を受けているという。
使っているのはオリンパスかな。
顔は映らなかったものの、町なかでカメラを構える姿を
観たら、華奢な透明感のある雰囲気のかただった。
番組を見終えて、ツイッターを覗いたら、壁の写真が
無言のコメントのまま、ずらっと並んでいる。
カメラを使うようになってから、いろんなかたの作品が
目に触れるようになった。
羽ばたいている鳥や走っている犬や猫の写真を見ては、
素早い動きを上手に捉えるなあと感心したり、
壮大な雪山や大海原の写真を見ては、
厳しい環境をものともせずにすごいなあと感心したり、
家族の写真を目にしたときは、
愛する思いが写真からにじみ出ていて、温かい
気持ちになったりと、その時々の印象がある。
でもまさか壁とはねえ。
たかが壁、されど壁。見入ってしまったのだった。
カメラを使い始めて十年。まだまだ目の付けどころが
あるのだなあと、気づかせていただいた。
以来、外出するたびに、まわりの壁ばかり気になって
しょうがないのだった。
冬景色遠く近くと切り撮って。
寒さをやり過ごし
如月 3
朝いちばん、近所のおばあさんが薬缶を持って
やって来た。お湯をくれというのだった。
台所の水道が凍ってしまい水が出ない
という。いっぱいに湯を入れて持っていき、
魔法瓶に移したら、再びお湯を入れて
水道の蛇口辺りにかけた。何度か繰り返していたら、
ようやくちょろちょろと出始めた。
客商売をして暮らしている。
訪ねてきてくださるかたはお年寄りが多い。
冬になると、みなさん体をいたわって外出しなくなる。
この冬は、例年に増して寒さがきびしい。
輪をかけて暇な日がつづいている。
訪ね人が一日ひとりだけの日がつづき、稼ぎがない。
1月に飲み屋へ出かけたのは5回だけだった。
なんとも少ないではないか。年が明けてから、
まだ顔を出していない馴染みの店もあり、
申しわけのないことだった。無沙汰をしていると、
いよいよ飲みすぎてぶっ倒れたかと、余計な
心配をさせてしまう。
毎日の気がかりごとなのだった。
休日の昼どき、蕎麦屋のさがやへ出かけた。
やっこの醤油豆和えで、黒ラベルを飲みながら聞けば、
この寒さに、店のトイレと流し場の水道が凍って
しまったという。暖房で暖めたら回復したものの、
窓の隙間から雪が吹き込んできたり、エアコンの暖房が
効かなかったり、困っている。
築何十年の家屋を借りていると、費用もかさんで
しまうのだった。白エビの天ぷらで山形の魔斬を。
そば味噌焼きで、地元の豊賀と宮城の伯楽星を酌んで、
花巻蕎麦で体を温めた。
有明海産の海苔をたっぷりのせた蕎麦は、風味が好く、
まことに旨かった。ゆっくりのひとときを終えて
店を出た。ふと思いついて、すぐそばの青沼酒店に
立ち寄った。
懇意にしている酒造りのかたがいる。
とあるお蔵の杜氏になって、造りを任されているの
だった。買い求めた新酒を利いてみたら、
アルコールが高めなのに飲みにくさがない。
これまでのこのお蔵の老ねた味とちがい、抜群に
旨くなっている。
さっそく造った本人に、しぼりたて旨いです。
おなじ銘柄とは思えない(笑)とラインを送ったら、
ここの設備で出来ることは限られておりますが、
うちも変身しておりますと返ってきた。
立春を過ぎて、陽射しに春のつよさが出てきた。
すでに目鼻に、花粉の飛来を感じている。
冬の終わりが間もなくのことだった。
寒明くや有明海苔の蕎麦を食い。
あるがままなすがままで
如月 2
母が退院した。
昨年の12月に、入居している介護施設で転倒して、
腰を骨折した。
長野中央病院で世話になっていたのだった。
1月の半ばに退院して、リハビリ施設に移る
予定だったのに、母の居た病棟とリハビリ施設の
両方でコロナ患者が出てしまい、
1月の最終日にようやくの退院となった。
入院中に担当してくれた先生は、
優しいまなざしのかたで、入院する際に症状について
丁寧な説明をしてくださり、入院中の様子についても
事細かな説明をしてくれた。
お医者といってもいろんなかたがいる。
以前母が体調を崩してこの病院に担ぎ込まれたとき、
対応されたのは、まことに態度の横柄な若者だった。
なんで人と関わる仕事をしてやがるんだと、
しばらく気分のわるい日がつづいたのだった。
このたびは、看護師のみなさんからも、まめに連絡を
頂いた。
骨折の痛みからか、食事を摂ろうとせず、
点滴で栄養を補ったりしたことや、
肝臓と膵臓の数値が良くないときがあったこと、
変わったことがあるたびに報告してくれた。
退院の少し前の日に頂いた電話では、
体の衰えが進んでいて、老衰の兆しが出てきたと
伝えられた。お母様の看取りについて
の考えを教えてくださいと尋ねられたのだった。
当日、車いすに乗った母に声をかけたら、
ちらっと笑顔を見せたものの、すぐに目をつぶって
うつらうつらとしてしまう。車いす用のタクシーを
呼んでもらい、リハビリ施設まで連れて行った。
入居して3日してから、担当の看護師に母の様子を
伺うと、意識が当初よりしっかりしているという。
ただ、食事の量にムラがあり、栄養不足だという。
今すぐのことではないけれど、万が一のときに、
母にどういう対応を望まれるか聞かれた。
6年前に父が癌で亡くなった。回復に
励んでいたものの、
薬の副作用でずいぶんと苦しんでいた。
それでもお医者に、あとは静かに余生をと、
諭されるまで治療を望んでいた。
癌の痛みと薬の副作用でやせ衰えた姿を思い出すと、
ほんとにご苦労様でしたと、今でも頭の下がる思いに
なる。
静かに生を終えられるならそのままで。
あるがままなすがまま。そう思うこの頃だった。
日を置いて母から電話がかかってきた。
仕事ははかどっているか、体をこわしていないか、
酒を飲みすぎていないか。
会えない息子を心配しての電話だった。
こっちは大丈夫だよ。
なんとも切ないことだった。
早春や諦念ひとつ深きこと。

母が退院した。
昨年の12月に、入居している介護施設で転倒して、
腰を骨折した。
長野中央病院で世話になっていたのだった。
1月の半ばに退院して、リハビリ施設に移る
予定だったのに、母の居た病棟とリハビリ施設の
両方でコロナ患者が出てしまい、
1月の最終日にようやくの退院となった。
入院中に担当してくれた先生は、
優しいまなざしのかたで、入院する際に症状について
丁寧な説明をしてくださり、入院中の様子についても
事細かな説明をしてくれた。
お医者といってもいろんなかたがいる。
以前母が体調を崩してこの病院に担ぎ込まれたとき、
対応されたのは、まことに態度の横柄な若者だった。
なんで人と関わる仕事をしてやがるんだと、
しばらく気分のわるい日がつづいたのだった。
このたびは、看護師のみなさんからも、まめに連絡を
頂いた。
骨折の痛みからか、食事を摂ろうとせず、
点滴で栄養を補ったりしたことや、
肝臓と膵臓の数値が良くないときがあったこと、
変わったことがあるたびに報告してくれた。
退院の少し前の日に頂いた電話では、
体の衰えが進んでいて、老衰の兆しが出てきたと
伝えられた。お母様の看取りについて
の考えを教えてくださいと尋ねられたのだった。
当日、車いすに乗った母に声をかけたら、
ちらっと笑顔を見せたものの、すぐに目をつぶって
うつらうつらとしてしまう。車いす用のタクシーを
呼んでもらい、リハビリ施設まで連れて行った。
入居して3日してから、担当の看護師に母の様子を
伺うと、意識が当初よりしっかりしているという。
ただ、食事の量にムラがあり、栄養不足だという。
今すぐのことではないけれど、万が一のときに、
母にどういう対応を望まれるか聞かれた。
6年前に父が癌で亡くなった。回復に
励んでいたものの、
薬の副作用でずいぶんと苦しんでいた。
それでもお医者に、あとは静かに余生をと、
諭されるまで治療を望んでいた。
癌の痛みと薬の副作用でやせ衰えた姿を思い出すと、
ほんとにご苦労様でしたと、今でも頭の下がる思いに
なる。
静かに生を終えられるならそのままで。
あるがままなすがまま。そう思うこの頃だった。
日を置いて母から電話がかかってきた。
仕事ははかどっているか、体をこわしていないか、
酒を飲みすぎていないか。
会えない息子を心配しての電話だった。
こっちは大丈夫だよ。
なんとも切ないことだった。
早春や諦念ひとつ深きこと。
遠藤彰子展へ
如月 1
休日の月曜日、上田へ出かけた。
上田市立美術館で、遠藤彰子展が開かれて
いるのだった。
昨年美術館におじゃました折りに、遠藤さんの
作品展開催の知らせを見て、興味を引かれたのだった。
1947年、東京生まれの画家で、若いころから近年の
作品が会場に並んでいる。
見上げるような大きなキャンパスに、深みのある濁った
色合いで描かれているのは、
無機質な街の中、うねりくる大自然の中、戸惑いさまよう
大人とも子供ともわからない人々の姿で、
予期せぬ時代の変化に自然災害、自身を襲った
重荷を通じて、
生きるさなかに押し寄せてくる不安と、探し寄せたい
希望がないまぜになって描かれている。
静かで激しい想いが迫ってくる作品を前に、
ぎゅうぎゅうと胸が圧倒されてしまった。
どうすればこんな強い想いを、その歳まで描き
つづけられるのか。
毎日ぬるま湯に浸かっているような身は、畏怖を
感じてしまった。
作品の最後に、このたびの作品展について、
ご本人の挨拶が飾られていた。
長野県での個展は初めてということ。
若い頃、山本鼎記念館と信濃デッサン館の作品に触れ
勉強させてもらったこと。
現在、上田市立美術館の資料と美術品の収集委員を
していること。縁のある上田での個展に喜びを
感じています。本当に感謝の気持ちでいっぱいですと、
述べておられた。
愛嬌のあるイラストが添えてあり、ほっとした気分で。
こちらこそ、すごい作品を拝見できて感謝です。
キャンパスに向かうお写真にお礼を述べたのだった。
美術館では、来月になると山下清展が始まるという。
ほんとに毎回好い企画を開いてくださるなあ。
受付のお姉さんにお礼を述べて美術館を出た。
さて昼酒をと、通りを上がって馴染みの寿司屋に行ったら、
月曜日の昼の営業をやめましたと知らせが出ていて
ふられた。
コロナ禍で客足が減って、おまけに光熱費に食材の値上がりが
続いている。どこの飲食店も、経費がかさまぬよう、
営業の変更を余儀なくされているのだった。
中華料理屋の美華に河岸を変えて、駆けつけてきた
上田の友だちの近況なんぞを聞きながら、
エビチリとワンタンをつまみに、キリンのラガーを
酌んだのだった。
美術館出て中華屋の冬日かな。