鎌倉の蕎麦屋で
水無月 8
自宅の目と鼻の先に老舗の蕎麦屋、北野家が
在る。上等のそば粉を使った、かどの立った
旨い蕎麦を提供している。
この店の次男坊のせいじくんが5年前に、
大好きな鎌倉の地に移住した。この5月、奥さんと
二人で念願の蕎麦屋を開業したのだった。
屋号は、そばcafe.tamazee。
奥さんがたまみさんだから、たまみとせいじで
たまじーですね。
鎌倉駅から藤沢行きのバスに乗って、長谷の大仏の
前を過ぎて、梶原口で降りる。わき道を入っていくと
風情のある家屋が見えた。青い暖簾をくぐったら、
たっぷりの笑顔で迎えてくれた。
住居兼店舗の家屋は築八十年という。
梁も柱も見事な太さで風格がある。囲炉裏のある
畳敷きの室内は、まだ、い草の爽やかな匂いがした。
およそ三十畳ほどの広さに対して四人掛けのテーブルが
三つだけ。お客様に、ゆっくり過ごしてもらいたいと
いう気配りだった。テーブルは、長野の職人さんに
お願いして、県産の材木で作ってもらったという。
戸隠産の蕎麦粉だけを使い、汁に使う醤油は松本の
大久保醸造の高級品で、野菜もすべて長野県産の
無農薬。日本酒も長野の地酒をそろえ、
信州そろい踏みの味を提供しているのだった。照明や
活けてある花や花器にも趣きがあり、お二人のお客を
迎える丁寧な気遣いが伝わってくる。室内は、
いろんな作家さんにギャラリーとして使ってもらい、
この日は沖縄の古波津安則さんの絵がいくつか
飾られていた。
蕗の煮物で黒ラベルを空けて、日本酒のあてに
出してもらった米粉の天ぷらは、さっぱりとした
食感でさくさくいけて、幻舞と北光正宗の杯が
すすんでしまった。
合間に蕎麦湯を出してもらったら、とろとろの濃さで、
これもまた酒がすすむあてになるのだった。
使われている器は奥さんの好みのやちむんと
呼ばれる沖縄の焼物で、おおらかな模様に愛嬌がある。
蕎麦は、十割の極細と粗挽きの相盛りで、極細は
まことにきれいな食感で、かたや粗挽きは喉越しに
力があって、どちらもまことに旨い。
蕎麦のつけ汁は旨味がつよく、これまで口にした
蕎麦屋の中でいちばんしっかりした味だった。
素晴らしい。この汁だけで四合飲めるではないか。
佇まいの好い店で温かな笑顔に迎えられ、旨い酒と
蕎麦のひとときに、すっかりくつろいだことだった。
冷や酒やはるばる友の店に居り。
北鎌倉で降りて
水無月 7
横浜で一泊した翌朝、大船で横須賀線に乗り換えた。
子供たちの通学の時間と重なって、ぎゅうぎゅう詰めの
車内で身動きとれぬまま北鎌倉へ行き、そのまま
子供たちと一緒に駅を出た。近くにある鎌倉学園の
生徒たちだった。駅からすぐの、円覚寺の石段を
上がってゆくと、なんとも懐かしい。
横浜の大学に通っていた頃、授業をさぼって
足を運んでいたのだった。北鎌倉から寺巡りをしながら
鶴ケ岡八幡宮まで。鎌倉駅から江ノ電に揺られて
長谷観音と大仏さんまで。都会の空気に馴染めずに、
静かな古都の景色に癒されたものだった。
ちょうど紫陽花が見頃のときで、円覚寺の境内も
観光客でにぎわっていた。境内をひとまわりして、
線路沿いの小道をすすんで、あじさい寺で有名な
明月院へ行くと、とんでもなく人があふれている。
紫陽花に囲まれた石段から行列ができて、なかなか
前に進めない。おまけに、立ち止まってカメラを
構える人がそこかしこにいるから、余計に動きが
はかどらない。
歩け!じっくり構えて撮っているな!の気分になった。
ようやく本堂にたどり着いてお参りを済ませたら、
右側に長い列が出来ている。丸窓を通して見える
庭園の写真を撮ろうと並んでいるのだった。有名な
絵になる景色だけれど、並んでまでして撮りたくない。
人混みに疲れて門を出て、
鎌倉学園の前を通って建長寺へ行くと、若い坊さんが
ちいさな子供たちにお寺の由来を話していた。
こちらの境内もあちこちに紫陽花が咲き誇り、
初夏の鎌倉は、まったく紫陽花の町なのだった。
坂道を下って鶴ケ岡八幡宮に着くと、神前で羽織はかまの
新郎と、目に爽やかな白無垢姿の新婦が、挙式の真っ最中
だった。観光客でにぎわう中、そこだけ静謐な空気に
包まれていた。
お参りを済ませて、小町通りを歩いて行くと、鎌倉彫の
店がいくつか在った。窓越しに並んだ商品を覗いたら、
貧乏人は手の出る値段ではないと、あっさりあきらめた。
そのまま進んで、鳩サブレで有名な豊島屋へ入った。
初めて入った店内には鳩サブレの他にも何種類もの
和菓子を売っていた。思案していくつか土産に
選び、長野までの発送をお願いした。
鎌倉駅前のバス停で藤沢行きのバスを待っていたら
ほどなくやって来た。
本日これから、友だちの営む蕎麦屋での昼酒が
待っている。歩き疲れてのども乾いた。
気が急いて仕方のないことだった。
紫陽花を求め混雑古都の道。
久しぶりの横浜へ
水無月 6
大学時代の4年間を横浜で過ごしていた。
母方の叔母が、南区でアパートを経営していて、
毎朝京浜急行の弘明寺駅から生麦駅まで揺られて、
坂道を上がった先のちいさな大学まで通っていた。
これといった目標もなく、勉強にも身を入れず、
のんべんだらりと過ごした日々だった。
叔母が亡くなって告別式に伺って以来、足が
遠ざかっていたものの、先日久しぶりに
出かけたのだった。
新幹線で東京駅まで行って、千葉に住んでいる幼なじみと
待ち合わせをした。東京駅の中の食堂で、昼酒をしながら
久しぶりの近況報告を聞けば、子供のことやご主人のこと、
いくつになっても気苦労が絶えず、大変だなあと察した。
さんざん御馳走になって、またの再会を約束して、
改札口で別れた。
京浜東北線の関内駅を出て、伊勢佐木町の通りを歩いてみる。
見覚えのある店がちらほら残っていたものの、
うろついていた40年前の記憶がすっかり飛んでいる。
東横インに荷物を預けて、大きな通りを渡って山下公園へ
行くと、親子連れや若いカップルがベンチや芝生で
くつろいでいる。
桜木町の赤レンガ倉庫まで歩いて行くと、観光客で
にぎわっている。崎陽軒の食堂で、シュウマイをつまみに
生ビールでひと休みをした。
在学中は横浜みなとみらい開発が始まったころで、
桜木町界隈はホームレスがたむろしていたり、殺人事件が
あったり、雰囲気が好くなかった。
あれから40年。すっかり空気が変わって、明るい
街並みとなったのだった。
ホテルに戻って汗ばんだシャツを着替えてから、
今宵の一献に駅の周辺をうろつくと、文次郎という
おでん屋が目に留まった。
暖簾をくぐったら、若いお兄ちゃんお姉ちゃんの営む
活気のある店だった。
お通しでビールを飲んでから、おでん五種盛りを頼み、
日本酒の品書きを見たら、長野の十六代九郎右衛門が
載っている。グラスに注いでくれるお姉ちゃんに、
長野から来たんですと言ったら、
私も長野の佐久なんですと返ってきた。
亀の海、澤の花、明鏡止水、寒竹、
ぜひ佐久の酒も揃えましょうと言ったら、
かわいい笑顔で頷いた。
壁の、本日の隠し酒ありますの貼り紙が気になって
注文したら、これまた長野の幻舞だった。しかも、
特別純米、純米吟醸、大吟醸と三つも揃えていて
素晴らしい。久しぶりの横浜の地で、故郷の地酒に
おおいに酔っ払ったのだった。
故郷の酒横浜で夏夕べ。
母校に気持ちを
水無月 5
町内の城山小学校が、創立150周年を迎えると、
回覧板がまわってきた。記念事業として、
校庭に面した校門を改修するという。
多額の費用がかかるので、寄付をお願いしたいと
いうのだった。
小学校5年生のときに100周年の式典を行った。
大樹と名付けられた記念碑が、体育館の向かいに
建っている。
1年生のときの担任の先生は渡辺先生だった。
すっかり顔を思い出せないが、優しいかただった
覚えがある。
2年生から6年生までは水野先生だった。
こちらはちょっと厳しい先生だった。授業で使う
教材を忘れていくと、次回から忘れないようにと、
油性の赤いマジックで、教材の名を腕に大きく書かれた。
親に見つかると叱られるので、帰宅すると急いで
石鹸でごしごしこすり落としていた。
6歳上の兄がいて、高校生のときに仲間とバンドを
組んでいた。自宅で毎日ギターやピアノを弾いて、
井上陽水や吉田拓郎を唄っていたから、こちらも
覚えるともなく覚えていた。学校の休み時間に、
人間なんてらららららら、ら~らと、吉田拓郎を
口ずさんでいたら、子供がそんな歌を唄うんじゃないと、
顔を机に叩きつけられた。
そんな罰が、先生も子供も当たり前の時代だった。
今だったら新聞沙汰になるなあと思い出した。
美術を専攻していた先生で、卒業するときにクラスの生徒
ひとりひとりに、似顔絵を描いた色紙を送ってくれた。
すっかり忘れていたのに、先日、実家の片づけに
行ったときに見つけた。
お名前は、まさはるだったかまさあきだったか覚えて
ないが、厳しくられたことも懐かしいことだった。
その頃仲良しだった友だちに、ピアノを習っている子が
いた。
親の転勤で引っ越してから、ずっと会わなかったのに、
20代のときに、長野のちいさなホールで演奏会を
やるからと連絡があったのだった。久しぶりの再会が
まことに嬉しかった。
峯村操くん、今はどうしているかとグーグルで
検索したら、
文教大学の教育学部で音楽の先生をしながら、ときどき
ピアノリサイタルをしていると出た。
写真を見れば、子供の頃の面影がそのままで、
元気そうでなによりとしみじみした。
この50年、
なんとも情けない暮らしを重ねてしまったが、
子供の頃から人の縁にだけは恵まれていたことと、
懐かしく振り返ったことだった。
後日、母校に気持ちばかりの寄付をさせていただいた。
緑さす友有り我有り母校かな。
今はどうしているのやら。
水無月 4
毎朝ノルディックウォーキングをしている。
その日の気分でコースを変えて、ときどき、通ったことのない
静かな住宅街の小路を歩くときがある。
五月初旬、東方面の柳町を抜け平林を抜け、西和田の通りを
下って折り返し、北条町の住宅街を歩いていたら、
車一台通れるくらいの小路を見つけた。
抜けていこうと入っていったら、左手に朽ちた床屋の家屋が
在った。「BarBar NAGASAKI」の看板に、
ここだったのかと足が止まった。
ここの奥さんが、母の高校の同級生なのだった。
高校を卒業してから音信が途絶えていたのに、共通の友だちを
通じて再会した。以来、たびたび母を訪ねて来るようになり、
長らく付き合っていた。ときどき共通の友だちも交えて、
3人で食事に出かけたり、旅行に行っていた。
ところが困ったことに、そのたびに、約束の時間に遅れて
くるのだった。ながさきさん、いい人なんだけど時間に
ルーズでねえと、母がそのたびにこぼしていた。
日本舞踊を習っていて、ある日、師範の資格を取るために
五十万円が必要だという。
母に貸してくれと頼んできたのだった。
貸して大丈夫?時間にルーズな人はお金にもルーズだよ。
忠告したものの、友だちのためだからと貸したのだった。
その甲斐あって無事師範の免状をもらえて、
お披露目の発表会に母も招かれた。
帰ってきた母が、あんな踊りで師範になれるんだねえと、
あきれたように言っていたのを覚えている。
時間にだらしない人柄が、そのまま踊りに出ているかと
うかがえた。
そののち、少しづつ借りたお金を返しに来ていたのに、
しばらくしたら、ぱたりと音沙汰が絶えてしまった。母が、
病気でもしたかと心配して電話をかけたものの、本人どころか
床屋をしている旦那も息子も電話に出ない。
様子がおかしいと思い訪ねたところ、一家そろってもぬけの殻
だった。向かいのお宅のかたに尋ねたら、
営業をしてないなと思っていたら、いつの間にか姿を
消していたという。夜逃げですか。
あのとき、いったいなにがあったのかと眺めていたら、
空家のはずの玄関口に、防犯当番と北条南部組長の表札が
ぶら下がっている。
身内のかたか、それとも赤の他人が暮らしているのか。
気になったものの、すでに20年あまり昔のこと。今さらね。
消えた人の顔を思い出しながら、その場をあとにした。
夜逃げ人どうしているや夏の朝。
須坂で飲んで
水無月 3
5月の下旬、近所のイタリアン、こまつやの
ご主人夫婦とスタッフのけいこちゃんと
飲み会をした。馴染みの飲み屋の座敷でおおいに
飲んで、翌朝、どうやって帰ってきたか記憶が
ない。そんな飲み過ぎで体がだるい日にかぎって
仕事が忙しい。
まったく世の中はよく出来ている。
翌週の日曜日の夕方、お隣の須坂市へ出かけた。
鰻料理屋、た幸のご主人と一献交わしましょうと
なったのだった。電車を降りて駅前で待っていたら、
ほどなく奥さんが運転する車でやって来て、
須坂高校前の居酒屋、十九まで送っていただいた。
この店は、た幸のご主人に勧められて、いちど
飲み仲間のかたがたと花火大会の日に訪ねたことが
あった。じつに8年ぶりの再訪なのだった。
日本酒の品ぞろえが好く、冷蔵庫の中は、びっしり
一升瓶で埋まっている。
あれこれ肴を注文して、次から次へといろんな
銘柄で杯を重ねた。
酌み交わしながら、初めて知り合ったときのことを
語り合えば、お互いにしっかり覚えている。
酔えばたいていその日の記憶を飛ばしているのに、
ちゃんと覚えていたのは、ご主人の客あしらいの好さが
印象に残っていたからだった。
地元の須坂に戻って鰻料理屋を開いてからは、
夜の営業は土曜日だけとなり、伺う機会が減ったものの、
凛とした佇まいの店内で、旨い肴での一献は、
生きててよかったと思えるほどの、まこと贅沢な
ひとときだった。
馴染みの店のご主人と酒を飲める仲になれるのは、
また一段距離が縮まったようで、ありがたく嬉しい
ことだった。
はしご酒に坂道を下り、駅にほど近いイタリアン、
古民家キッチンTAKIBIに連れていってもらった。
感じの好いご店主が営んでいて、旨い料理に
ワインがすすんだ。十九とTAKIBI、どちらも
ご主人が行くだけあって好い店だった。
須坂に来たときは、馴染みにさせていただきたい。
須坂市はコロナ禍で休止していた花火大会を、この夏
4年ぶりに開催するという。その前日には、これまた
4年ぶりに、カッタカッタ祭りも再開されるという。
夏の須坂の賑わいを眺めて酔うのも好いなあ。
そんな気分になるのだった。
養蚕の町の踊りに花火かな。
塩田平のお蔵さんへ
水無月 2
上田市に塩田平という地区がある。田畑が広がり、ため池が
点在する、のどかな景色の中を上田電鉄の
別所線の二両電車がごとごとと走っている。
そんな塩田平の別所線中野駅のすぐそばに、月吉野を
醸す若林醸造が在る。
上田の友だちに誘われて、新酒の会に参加させていただいた。
コロナ禍になってから、4年ぶりの開催で、他の参加者の
かたがたと、薄暮の中をのんびりと揺られて行った。
跡取り娘の真実さんが杜氏になって7年になるという。
日本酒の需要の低迷がつづき、製造をやめて、
近隣の農家の果物でジュースを作って売っていたという。
御両親が自身の代で廃業するというのを聞いて、
跡を継ぐ決心をした。他のお蔵での修行を終えて、
約50年ぶりに、造りを復活させたのだった。
日を置かず、味の良さが酒徒の間に広まって、すっかり
銘酒の地位を築いている。
コロナ禍で飲食店や観光地での酒の需要が落ち込み、
お蔵さんはどこも苦しい思いをされていた。
お客を迎える若林家のご家族の笑顔を見ていると、
ふたたび集いの場を設けられた嬉しさが伝わってきた。
お父様の挨拶につづいて、真実さんが挨拶をされる。
この4年の間に、お子さんを産んだという。
着物姿の真実さんはあいかわらずおきれいで、
ほのかにおかあさんの貫禄を漂わせていた。
昨年の関東信越鑑評会で優秀賞を受賞した、つきよしの
純米大吟醸で乾杯して、宴が始まった。
用意されたお酒は14種類。
さっそく求めるかたがたが、並んだ一升瓶に群がっていく。
美味しい料理をほおばりながら、順番に味を利いていく。
杯を重ね、小休止に中庭に出て見上げれば、塩田平の広い空を、
薄手の雲が流れていく。窓越しの座敷に目をやれば、盃を手に、
笑顔が弾むみなさんの姿に、酌み交わせることのありがたさを
しみじみ感じるのだった。
酒屋やお蔵さん主催の酒の会は、これまでいくつも参加していて、
たいていどこぞの飲み屋を会場にしている。
こうしてお蔵のお座敷に招いてくれるのは珍しいことだった。
テーブルいっぱいの料理はご家族の手作りという。
蔵元の心からのもてなしに、胸が温かくなったのだった。
雲流る塩田平の冷や酒を。
飯山の酒を
水無月 1
馴染みの飲み屋がいくつかあって、ときどき
日本酒の会が催される。毎回、県内外の
お蔵さんを招いて、それぞれの銘柄の味をいくつか
利かせてもらう。
コロナ禍になってから、会の自粛がつづいた中、
久しぶりに、しまんりょ小路の料理屋、野響で
開かれたのだった。
この日は、長野県飯山市で北光正宗を醸す、角口酒造さんを
招いての会だった。
創業は明治2年。杜氏を務める跡取り息子の村松裕也さんで
6代目となる。
長野県のいちばん北に在るお蔵さんで、銘柄の由来は北の夜空に
輝く北斗七星から頂いた。
大学を卒業して2年間会社員をしていたときがある。
当時、世話になった先輩が、このお蔵さんの身内のかただった。
短い間だったけど、好く世話を焼いてくれたかただった。
まだ日本酒に興味がなかったときで、一緒に飲んだことがないのが
悔やまれる。
北光正宗を飲むと、ときどきお顔を思い出すのだった。
結婚をした際に、連れ合いのお母さんの実家が角口酒造の近所で、
訪ねた折りはいつも北光正宗の普通酒を土産に持たせてくれた。
その当時は、日本酒と言えば、越乃寒梅や八海山や久保田など、
新潟の端麗辛口が世間を席巻していたときだった。
長野の酒がまるで見向きもされない中、初めて飲んだその味に、
なかなか旨いではないかと思ったのだった。
その頃長野市に、ちいさな北のお蔵さんと付き合っている
酒屋がどこにもなく、連れ合いと離婚をしてからは、
とんと口にする機会がなくなった。北光正宗という名前もすっかり
頭から消えていたときに、酒屋を営む友だちが取引を始めた。
うちは昔から辛口の酒を造っていますという。飯山地方は冬場、
雪の量が3メートルを越える豪雪地帯だった。
雪が積もれば農家のじいさん連中は、酒を飲むしかやることが
ない。
野沢菜をつまみにだらだらと飲んでいられる辛口の味という。
糖度の低い、澄んだ切れのいい味わいは、まさに北斗七星のよう。
ほれぼれと酔ったことだった。
若いときは純米吟醸みたいな高い酒を飲んで、歳をとったら、
安い普通酒にいくのが粋な酒飲みですと、以前村松さんに
言われたことがある。おっしゃるとおりです。
酸いも甘いも嚙み分けて、肩肘張らずに過ごす身には、
肩肘張らない安い酒が合う。
そんな歳に成っていることだった。
星涼し酌めども飽きぬ酒を酌み。