今年の終わりに
師走 8
夕方、仕事を終えて、ひと回り散歩をしていたら
電話が鳴った。母の入居している施設からで、
母が転倒してしまったという。
頭と肩と肘と腰を打ってしまい、痛がっている。
救急車で近くの長野中央病院へ搬送すると
言うのだった。
慌てて病院へ駆けつけた。
診察の結果、右側の骨盤が折れていると言われ、
そのまま入院と相成った。ベッドに寝たまま、
心細げな顔で病室に運ばれる母を見送ったら、
切なくなってしまった。
今年は厄年だったから、年明け早々に、近所の
神社でお祓いをしてもらった。
秋に、朝の散歩の折りに、わき見運転の車に
追突されて、頭を怪我した。
傷口を縫って、師走の上旬まで医者通いを
していたものの、むしろこの程度ですんだのは
幸いだった。お祓いが効いたかな。打ちどころが
悪ければ、今ごろは四十九日の法要を
されているところだった。とは言え、
友だちにずいぶんな心配をかけてしまった。
ねぎらいの言葉をたくさんいただいて、
ありがたいことと、日々の縁に感謝をした。
母のことに我が身の暮らしのこと。不安は尽きないが、
今に始まったことでもなく、
あれこれ考えても成るようにしかならない。
良い意味でのあきらめも大事。
そう思える歳になっている。
今年の厄のお清めと、新年を無事に迎えられますよう、
再び神社で、締めのお祓いをしてもらった。
屈託を抱えることもあったけれど、今年も旨い酒に
酔い酔いに過ごしていた。
酔って記憶を失くさぬように。
年の瀬になると、いつも来年への言い聞かせに
しているのに、守ったためしがない。
それというのも、気のおけない友だちに
囲まれているせいと、居心地の好い馴染みの
飲み屋のせいだった。温かなひとときに、ついつい
杯をかさね過ぎてしまうのだった。
コロナ禍落ちつかぬ中、飲み屋のご主人がたは、
今年もきびしい商いを強いられていた。
もう少し頻繁に足を運べばよかったと、
申しわけないことだった。
目上のかたを敬うこと。年下の友だちを
大事にすること。
程好い湿り気の有る縁をつづけていけますよう。
旨い酒を酌み交わせますよう。
みんなが穏やかに卯の年を迎えられますよう。
寅の年、ありがとうございました。
頂いた気遣いあまた年惜しむ。
写真家、相原正明さんを訪ねて
師走 7
赤坂のフジフイルム・スクウェアまで、写真家、
相原正明さんの個展を観に出かけた。
地下鉄の乃木坂駅を出ると、目の前に、青山霊園が見えた。
まだ、高いイチョウの黄色が冬晴れの空に冴えている。
広い敷地の中を歩いて行くと、見上げるようなりっぱな
墓が並んでいて、お偉いかたがたくさん眠っている。
真田家之墓と刻まれた、大きな墓石があった。
近寄ってみたら、かつて信州上田の地を納めていた
真田家の家紋、六文銭が刻まれている。上田を愛する身は
嬉しい遭遇に、はるか上田の平和を見守ってくださるよう
手を合わせた。
時間を見計らって個展の会場に行くと、
相原さんご本人がいらっしゃった。
十年前に、カメラで写真を撮るようにした。
カメラについてはまったく疎く、パソコンを開いて
あれこれ調べていたところ、富士フイルムの
ホームページで、オーストラリアの
自然を写した作品が目に留まったのだった。
すてきだなあと思い、ご自身のブログを覗いたら、
長年にわたり、オーストラリアの風景を撮りつづけている
かただった。その傍ら、日本の風景写真も数多く
撮っていて、徳島に高知に大分に北海道、信州にも
足を運んでいる。ときにはホンダかBMWの大型バイクを
駆使して、ものすごい距離を移動して活動している。
ぽっこりお腹の体形からは、想像がつかないほど
身のこなしが軽いのだった。ブログでは
富士フイルムのカメラの好さも詳しく述べており、
読ませていただいたのをきっかけに、
我が愛機としている。
このたびの個展では、五十点の作品が並べられていた。
ブログでも、開催までの気苦労に、写真家としての
気構えをせつせつと述べておられていた。
今はSNSでプロのかたの作品が気楽に拝見できるけれど、
生のプリントを目の前にすると、吸い込まれるような
迫力がぜんぜん違う。
会場から立ち去りがたく、何度も行き来して
拝見させていただいた。
仕事で長野に来たときは、地元のスーパー、ツルヤも
贔屓にしてくださっている。
ツルヤのオリジナル商品がお気に入りで、
ピザにカレーにビーフシチューにりんごジュースを
ブログで褒めていた。
オーストラリアで、さんざん旨いワインを
飲んでいるのに、ツルヤの三百円のワイン、
美味しいです、などと言っている。
先日、仕事で上田へ来た折りに、上田駅前の飲み屋での
様子がブログに載っていた。
料理の写真を観たら、我が馴染みの幸村ではないか。
そこで飲んだ和田龍が格別でしたと言っていて、
でしょ。和田さんの和田龍は旨いんですよお。
顔なじみのお蔵さんの味を褒めてもらい、嬉しくなった。
語り口の静かな気さくなかたで、素敵な作品と共に
和やかなひとときを過ごさせていただいたのだった。
ぜひ長野や上田で個展を開いてくださいとお願いをした。
その折りには、和田龍とツルヤの肴を土産に
馳せ参じたいことだった。
赤坂へ会いたきかたと冬ぬくし。

東京まで
師走 6
日曜日、仕事を早めに終いにして、東京へ出かけた。
こだわり酒場レモンサワーと角ハイボールを飲みながら
上野まで。鶯谷の東横インにチェックインをして、
さて、今宵の一杯をどこでやろうか、駅のまわりを
徘徊する。鶯谷は初めての地。ラブホテルが多いと
聞いていたものの、駅の南口にそれらしきビルは
見当たらない。よしんば見つけても、心身ともに
しょぼくれたおっさんは、ときめくこともないのだった。
駅前から大きな道路を渡って、ひと気のない住宅地を
さまよっていたら、ぽつんと看板の灯りが見えた。
近づいていくと、菊姫とナチュラルワイン 磯次郎と
描いてあり、石川の銘酒,菊姫の幕が張ってある。
菊姫とナチュラルワインか。面白い組み合わせと
暖簾をくぐった。
店内は、カウンター八席だけのちいさな店で、
先客は常連とおぼしき若いカップルが一組だけ。
カウンターのはしに落ちついて、
アサヒ熟選プレミアムをいただく。
黒板の品書きを見れば、洋食の肴が並ぶ。
スズキのカルパッチョをつまみながら、久しぶりの
菊姫の山廃純米を頂いた。
店を営むご主人は、若い男前の寡黙なかたで、
注文を受けるとき以外は話しかけてこない。
こちらも気を遣うことがなく、菊姫の厚みのある旨味を
味わった。追加で菊姫の普通酒と軽めの
白ワインを頂いて店を出た。
カウンターの普通酒の一升瓶に、暖房の風がじかに
当たっていたのがいささか気になったものの、
料理も旨く、値段も手ごろで、初めての店で
くつろいだのだった。
翌朝、西日暮里から地下鉄に乗って乃木坂まで向かった。
通勤時間をずらして乗ったつもりが、車両は
ぎゅうぎゅう詰めだった。
朝が始まったばかりなのに、座席に座っているかたは、
頭を垂れて寝ているかたが多い。
目の前の座席の、髪の乱れたお兄さんは、ごうごうと
でかいいびきをかいて爆睡している。
夜勤明けなのかな。お疲れ様ですとねぎらいたくなった。
隣の茶髪のお姉ちゃんは、まるで気にするそぶりもなく、
スマホのゲームに熱中している。
横浜の大学に通っていた頃、毎朝満員電車に揺られて
通学していた。それだけでくたびれてしまい、
授業中は居眠りばかりしていたっけ。
日夜東京で働いている人々を目にすると、
その気張りようを、
つくづく偉いと思ってしまうのだった。
千代田線響くいびきや冬うらら。
蕎麦屋とスラムダンクと
師走 5
宮城リョータは、沖縄で生まれたのか。
師走最初の休日、朝から忙しい。
用事を全て済ませて帰宅したら、午後の二時半を
回っていた。
近所の蕎麦屋の丸清に、遅い昼酒に向かった。
入口わきの席に座って、エビスをひと口
飲めば、ようやく気分がほっとする。
目の前の席には二十代前半とおぼしきカップルが
座っている。ほどなく二人の前に、かつ丼が
運ばれてきた。ひと口箸をつけたら二人そろって、
美味しいねえとおおきな声をあげた。
そうだろう、旨いでしょ。秘伝のソースを継ぎ足し
継ぎ足し使っているかつ丼は、この店の名物なのよ。
声をかけたくなった。
かつ丼を食べながら彼氏が、
クリスマス、何が欲しい?と彼女に聞くと、
う~んと考えこんだ。
まかせてもらっていい?と再び聞いた彼氏に、
うん!と頷いた。燗酒を酌みながら、
しょぼくれた我が身にもこんな時があったなあと、
遠い昔を振り返り、
若い二人の会話ににやついてしまった。
食べ終えて店を出て行くときに、彼氏が大きな声で
ごちそうさまでしたと挨拶をしていった。
気持ちの好い若者だねえと、こちらも気分が好くなった。
新蕎麦で締めて店を出たら、時間の塩梅が
ちょうどいい。
バスケットボールの漫画、スラムダンクのアニメが
このほど、「THE FIRST SLAM DUNK」と題して
公開されたのだった。
りっぱな東宝グランドシネマと、長野駅前の古びた
千石劇場と、二つの映画館で上映している。
千石劇場の方が空いていると目星をつけて行ったら、
案の定、お客は自身も含めて七人だけだった。
インターハイの山王工業戦に、
ガードの宮城リョータの生い立ちをおりまぜながら
話が進んでいく。
沖縄で生まれたリョータは、幼少の頃に父を亡くし、
バスケットボールを教えてくれた兄も、
海の事故で亡くしてしまう。横浜に引っ越してきて、
湘北高校に入り、個性豊かな仲間と出会う。
身近にもスラムダンクのファンがいる。
面白かった。ぜひとも。見終えてすぐにメールを
送った。
桜木に流川に赤木に小暮くんに、
よくぞ走ってたの三井に。
他の誰かの生い立ちを綴った次回作も出るのかな。
映画の余韻を抱えて、
馴染みの飲み屋に向かったのだった。
スピードが命リョータの冴ゆるなり。

宮城リョータは、沖縄で生まれたのか。
師走最初の休日、朝から忙しい。
用事を全て済ませて帰宅したら、午後の二時半を
回っていた。
近所の蕎麦屋の丸清に、遅い昼酒に向かった。
入口わきの席に座って、エビスをひと口
飲めば、ようやく気分がほっとする。
目の前の席には二十代前半とおぼしきカップルが
座っている。ほどなく二人の前に、かつ丼が
運ばれてきた。ひと口箸をつけたら二人そろって、
美味しいねえとおおきな声をあげた。
そうだろう、旨いでしょ。秘伝のソースを継ぎ足し
継ぎ足し使っているかつ丼は、この店の名物なのよ。
声をかけたくなった。
かつ丼を食べながら彼氏が、
クリスマス、何が欲しい?と彼女に聞くと、
う~んと考えこんだ。
まかせてもらっていい?と再び聞いた彼氏に、
うん!と頷いた。燗酒を酌みながら、
しょぼくれた我が身にもこんな時があったなあと、
遠い昔を振り返り、
若い二人の会話ににやついてしまった。
食べ終えて店を出て行くときに、彼氏が大きな声で
ごちそうさまでしたと挨拶をしていった。
気持ちの好い若者だねえと、こちらも気分が好くなった。
新蕎麦で締めて店を出たら、時間の塩梅が
ちょうどいい。
バスケットボールの漫画、スラムダンクのアニメが
このほど、「THE FIRST SLAM DUNK」と題して
公開されたのだった。
りっぱな東宝グランドシネマと、長野駅前の古びた
千石劇場と、二つの映画館で上映している。
千石劇場の方が空いていると目星をつけて行ったら、
案の定、お客は自身も含めて七人だけだった。
インターハイの山王工業戦に、
ガードの宮城リョータの生い立ちをおりまぜながら
話が進んでいく。
沖縄で生まれたリョータは、幼少の頃に父を亡くし、
バスケットボールを教えてくれた兄も、
海の事故で亡くしてしまう。横浜に引っ越してきて、
湘北高校に入り、個性豊かな仲間と出会う。
身近にもスラムダンクのファンがいる。
面白かった。ぜひとも。見終えてすぐにメールを
送った。
桜木に流川に赤木に小暮くんに、
よくぞ走ってたの三井に。
他の誰かの生い立ちを綴った次回作も出るのかな。
映画の余韻を抱えて、
馴染みの飲み屋に向かったのだった。
スピードが命リョータの冴ゆるなり。
寒さが増して
師走 4
寒さがきつくなってきた。
市街地に初雪が舞って、冬本番を迎えたのだった。
今年の夏、自宅の仕事場のエアコンを入れ替えた。
二十二年間、十四畳の仕事場で六畳用のエアコンを
使っていた。暑さ寒さに力不足で、
夏はおおきな扇風機を、冬になると灯油のストーブと
電気ストーブを併用していた。このたびは
部屋の広さに見合ったエアコンにしたところ、
夏は寒くなるほどよく冷えて、この冬使いだした
暖房も、すぐに部屋中暖かくなって、まことに具合が
よろしいことだった。足元の寒さが気になったら、
年明けに買った、アラジンのカーボンヒーターをつける
ことにして、灯油のストーブは使わないことにした。
あいかわらず灯油の価格が高いままだから、
使わずに済むのはありがたいけれど、電気代も値上がり
している。この冬の出費がいかほどになるのか、
いささか気になることだった。
茶の間では冬の間、ちいさな炬燵を使っていた。
ところが、背中を丸めて暖まりながら、燗酒なんぞを
酌んでいると、ゆるゆると酔いが回って、
うたた寝ばかりを繰り返していた。
窮屈な姿勢で寝るから、翌朝体は痛いし、
炬燵の上には前夜の徳利やら盃やら皿がそのままで、
だらしがない。
炬燵を処分してガスストーブで暖を取るように
したところ、すぐに部屋が暖まるのは好かったものの、
暖まりながら燗酒なんぞを酌んでいると、
ゆるゆると酔いが回ってうたた寝ばかりを繰り返し、
ストーブのそばで寝るものだから、ふくらはぎを
やけどしたり、服を焦がしたりして危ない。
昨年新しいエアコンを取り付けて部屋を暖めて、
布団を茶の間に持ってきて、寝るようにしたのだった。
先日、早々に師走最初の忘年会を済ませた。
ひと様に誘われるときもあり、誘うときもあり。
毎年師走になると、忘年会で散財し過ぎぬようにと
誓うのに、気がつけばいつも、飲み疲れで大晦日を
迎えていることだった。
今のところ、あとの予定はひとつだけ。
この先いくつ増えるかなと思っていたら、
なんのことはない。とんとん拍子に七つになった。
遠くの町に暮らす友だちと、コロナ禍になり、
ずいぶんと会っていない。
暮れに帰省できるかなあ。顔を思い出したのだった。
散財や忘年会の切れ目なく。
キリンビール仙台工場へ
師走 3
毎晩ビールを飲んでいる。
先だって宮城へ出かけた折りに、キリンビール仙台工場へ
行く機会に恵まれた。
主力商品の一番搾りについて、
工場を見学しながら説明を受けたのだった。
入口のロビーには、十一年前の大震災で、工場も甚大な
被害を受けた様子が展示されていた。
津波が来た際は、社員や近隣の住民は工場の屋上に
上がって、難を逃れたという。
並び立つ大きなタンクの前には、WELCOMEと、見学客を
歓迎する看板が立っていて和む。
子供の頃、ビールと言えばキリンだった。
父のお使いで近所の酒屋に行くと、氷の入った水槽に、
キリンラガーの大瓶がずらっと並んでいた。
キリンラガーがビール全体の売り上げの六割以上を占め、
当時の独占禁止法に引っかかりそうな勢いだったという。
そんな長年のキリンの牙城をくずしたのが、アサヒの
スーパードライだった。二十五歳くらいのときで、
売り出した途端に人気に火がついたのだった。
初めて飲んだときに、薄い味なのに当たりがきついなと
感じた覚えがある。じきにスーパードライばかりを
どこの飲み屋でも見かけるようになった。
売れすぎて品不足になり、アサヒの社員は
スーパードライを飲んではいけないと、お触れが
出たほどだった。
スーパドライの勢いに、キリンもサッポロもサントリーも
似たようなドライビールや、しばらくしてから、
麦100%のビールを出して来たり、
百花繚乱のありさまだった。
そんな激しい競争を経て、スーパドライ同様に、
不動の人気を得たのが一番搾りだった。
工場内を眺めながら造りの過程を教えていただいて、
最後に普通の一番搾りと、
上等なホップを使った一番搾りと、黒ビールの
一番搾りを試飲させていただいた。
一番搾りも味を覚えて三十年あまり。
最近は思うところあって、もっぱらサッポロの
エビスだけど、ひと頃、
一番搾りの好きな女性と付き合っていたときがあり、
つられてずっと飲んでいた。
身のまわりの酒豪のかたがたで、スーパードライを
好んでいるかたがひとりもいない。
底なしの飲兵衛には、味が軽すぎて物足りないかと
うかがえたのだった。
厚着して泡を注ぐもまた好くて。
ニッカウイスキー宮城峡工場にて。
師走 2
ときどき寝酒にウイスキーを飲んでいる。
晩酌で日本酒に酔ったあと、あるいは
馴染みの飲み屋から帰宅して、ひと風呂浴びたあと、
チョコやナッツをつまみに二、三杯、ショットグラスか
氷を入れたロックグラスでなめている。
冬の寒さが増してきたらお湯割りも好い。
体が暖まってよく眠れるのだった。っていうか、
お湯割りの前に十分酔っているから、飲まなくても
よく寝ているんだが。
気に入りだったのは、メルシャンが長野県の
軽井沢蒸留所で造っていた、その名も軽井沢の12年だった。
残念ながら二十年ほど前に、蒸留をやめてしまったのだった。
その後好んでいたのは、サントリーの白州の10年と、
響の12年だった。ところがちょっと前に、
日本のウイスキーが海外で恐ろしいほど人気になって、
酒屋の店頭から消えてしまった。そのあたりから
自宅で飲む回数もなんとなく減っている。
十一年前の新緑の頃、友だち夫婦と連れ立って、
山梨に在る白州蒸留所を訪ねたことがある。
森の中の爽やかな空気は、そのまま白州の味わいに
つながっているのを実感した。
酒屋の峯村くんに,ニッカウイスキーの宮城峡蒸留所へ
連れて行ってもらった。
仙台市街から山の中を進んでいくと、
秋の終わりの冷涼な空気の中、レンガの建物が見えた。
広い敷地に入っていくと、
赤い上着のおしゃれなおじさんが、駐車場へ誘導してくれる。
蒸留所が出来たのは、1969年。
北海道の余市につづく二番目の蒸留所で、
余市とは、味の異なるウイスキーを造っている。
ウイスキーの仕込みには、すぐそばの新川の水を
使っているといい、この水の良さが蒸留所建設の
決め手になった。貯蔵樽の製造場に、
ウイスキーに風味を出すために
樽の内部を焼いている現場を見せてもらい、
貯蔵庫に行くと、薄暗い倉庫の中に樽がずらっと
並んでいる。さまざまな樽のウイスキーを、
優秀なブレンダーさんが掛け合わせて、
世に送り出しているのだった。
敷地の中を歩いていると、まわりの木々の自然と
レンガ造りの建物が、美しく調和をしている。
この地で造られている、味わいのちがうウイスキーを、
いくつか試飲させていただいた。
後日、さっそく峯村くんに、宮城峡を注文したことだった。
貯蔵庫に冬陽かすかや宮城峡。

ときどき寝酒にウイスキーを飲んでいる。
晩酌で日本酒に酔ったあと、あるいは
馴染みの飲み屋から帰宅して、ひと風呂浴びたあと、
チョコやナッツをつまみに二、三杯、ショットグラスか
氷を入れたロックグラスでなめている。
冬の寒さが増してきたらお湯割りも好い。
体が暖まってよく眠れるのだった。っていうか、
お湯割りの前に十分酔っているから、飲まなくても
よく寝ているんだが。
気に入りだったのは、メルシャンが長野県の
軽井沢蒸留所で造っていた、その名も軽井沢の12年だった。
残念ながら二十年ほど前に、蒸留をやめてしまったのだった。
その後好んでいたのは、サントリーの白州の10年と、
響の12年だった。ところがちょっと前に、
日本のウイスキーが海外で恐ろしいほど人気になって、
酒屋の店頭から消えてしまった。そのあたりから
自宅で飲む回数もなんとなく減っている。
十一年前の新緑の頃、友だち夫婦と連れ立って、
山梨に在る白州蒸留所を訪ねたことがある。
森の中の爽やかな空気は、そのまま白州の味わいに
つながっているのを実感した。
酒屋の峯村くんに,ニッカウイスキーの宮城峡蒸留所へ
連れて行ってもらった。
仙台市街から山の中を進んでいくと、
秋の終わりの冷涼な空気の中、レンガの建物が見えた。
広い敷地に入っていくと、
赤い上着のおしゃれなおじさんが、駐車場へ誘導してくれる。
蒸留所が出来たのは、1969年。
北海道の余市につづく二番目の蒸留所で、
余市とは、味の異なるウイスキーを造っている。
ウイスキーの仕込みには、すぐそばの新川の水を
使っているといい、この水の良さが蒸留所建設の
決め手になった。貯蔵樽の製造場に、
ウイスキーに風味を出すために
樽の内部を焼いている現場を見せてもらい、
貯蔵庫に行くと、薄暗い倉庫の中に樽がずらっと
並んでいる。さまざまな樽のウイスキーを、
優秀なブレンダーさんが掛け合わせて、
世に送り出しているのだった。
敷地の中を歩いていると、まわりの木々の自然と
レンガ造りの建物が、美しく調和をしている。
この地で造られている、味わいのちがうウイスキーを、
いくつか試飲させていただいた。
後日、さっそく峯村くんに、宮城峡を注文したことだった。
貯蔵庫に冬陽かすかや宮城峡。
師走を迎えて
師走 1
毎年この時期になると、手描きのカレンダーを作って、
親しいかたに差し上げている。
描きだすまでが億劫で、もうやめようかと思ったものの、
つたない出来でも、もらってくださるかたを思い出し、
一日一枚、十二日かけて、なんとか描きあげた。
あとは、今年撮りためた写真の中からひとつ選んで、
年賀状をプリントすれば、気がかりごとは
終いになる。パソコンを開いて、写真を振り返って、
このたびは、自宅からしばらく歩いた先の坂の上、
夕陽が丘団地で見かけた、桜の写真を使うことにした。
十一月が終わり、向かいの松木さんちの
つたの葉がすっかり落ちた。落ち葉が路地のあちこちに
舞って、松木さんが毎日箒を持って追いかけている。
玄関先のガマズミも黄色い葉が日ごと落葉して、
赤い実だけが鮮やかに映えている。
壁沿いに茂っていた零余子の葉も枯れて、
ちぎって片付けたら、ごろごろとたくさんのちいさな実が
あらわれた。お椀いっぱいに拾って、
茹でて豆腐と和えて、酒のつまみにすることにした。
十一月の十九、二十日は、近所の西宮神社の恵比寿講が
開かれた。だるまや熊手の縁起物の屋台が並び、
参拝客で賑わった。
日を置いた二十三日には、市街地の南側、千曲川の
河川敷で、恵比寿講大煙火大会が開かれた。
コロナ禍で中止の年がつづき、今年は四年ぶりの開催と
相成った。秋の終わりと冬の始まりを告げる、
区切りの花火大会なのだった。あいにくの雨降りの
寒い日で、自宅まで響いてくる音だけ聞きながら、
酒の杯をかさねていた。
近所で野暮用を済ませた帰り、
食堂の長門屋の前を通ったら、入口の品書きに、
鍋焼きうどんを見つけた。善光寺門前はあちこちに
蕎麦屋が在って、うどんを出している店もあるけれど、
鍋焼きは見かけない。
亡くなった父が好きで、ときどき食べに来ていたなあと、
思い出しながら暖簾をくぐった。
店内に先客の若いお母さんと小学生くらいの男の子がいて、
熱々の鍋焼きを、二人そろってふーふーしながら食べている。
和んだ気分で眺めて、
こちらもビールと一緒に注文したのだった。
鍋焼きにあちちとびびる君が好い。