友来たる
皐月 9
高校を卒業してから、大学生活の4年間を
横浜で過ごしていた。母方の叔母夫婦が南区に
住んでいて、そこのひと部屋を間借りして、
鶴見区に在る大学まで通っていた。
毎朝、京浜急行の満員電車に揺られるだけで、
肩こり頭痛に悩まされ、都会は馴染まないと
じきにわかったことだった。
商科系の学校で、経済やら商業やら簿記やらを
学んでいたのに、教養らしい教養は、
な~んにも身に付かず、だらだらと中途半端に、
やる気のない毎日を過ごしていたのだった。
御開帳中の善光寺へ参拝がてら、大学時代の友だちが
訪ねてきてくれた。
在学中、いちばん親しくしていた人だった。
石川県の、海の町で生まれ育ち、現在は金沢で
暮らしている。前回、金沢へ行って以来、
4年ぶりの再会だった。銘菓と銘酒と漆器の盃を
土産にもらい、早速、茶の間でエビスで乾杯をした。
ひと息ついたら、混雑している門前界隈を避けて、
静かな通りの、馴染みの蕎麦屋に落ちついて、
あらためての杯を交わす。
酌みあいながら、あの頃の友だちの話になれば、
山梨の土産物屋の友だちは元気にしているのか。
夏休みに遊びに行ったとき、
ずいぶんもてなしてくれたっけ。
卒業してから疎遠になってしまい、屋号も住所も
覚えていない。
穏やかな性格だった地元の友だちは、
のちに自死したという。いったい何があったのか、
わからずじまいのままだった。
いつのまにか距離が遠のいたり、すでに逝って
しまったり、会いたくても会えないかたがいる。
思い出すと、懐かしくて切ない。
今でもこうして縁があり、旧交を温め合えるのは、
つくづくありがたいことだった。
蕎麦屋から、馴染みの飲み屋へ河岸を変え、
再会の一日を楽しく酔い酔いに、
酔っ払ったのだった。
転職をしたり離婚をしたり、お互いにでこぼこの道を
歩いてきた。笑いながら、これまでの暮らしぶりを
語り合えるのも、
この歳になってゆえのことだった。
翌朝、早々に帰る友だちを見送った。
夏の金沢。旨い酒と肴の再会を期したのだった。
青あらし会いたいときは会いに行く。
漆器を使って
皐月 8
5年前に父が亡くなり、その翌年に
母が介護施設に入居して、
実家が空家になっている。
この先、母が戻ることはないものの、
両親が苦労をして建てた家だから、
母が生きている間は、そのままにしてあるのだった。
空家になったあと、不要なものは片付けようと、
実家に足を運んだ。
物が多いのは知っていたが、いざ手をつけると、
あらためてため息が出た。
押し入れを開ければ、旅館でもないのに、
なんでこんなに敷布団掛け布団があるのか。
台所の戸棚を開けば、料理屋でもないのに、
なんでこんなに鍋釜、食器があるのか。
父が亡くなったあと、父の洋服は兄が
もらっていったものの、
着道楽だった母の着物が、タンスふたつ分、
ごっそり残っている。
一階の和室みっつに、それぞれ重たい座卓があって、
台所には、大きな丸いテーブルがある。
両親のおおきな洋服ダンスが、一階と、
二階の和室と納戸にあわせて九個あり、
とても一人では処分しきれない。
あとは、のちのち業者さんにお願いすることと
あきらめたのだった。
台所を片付けていたときに、食器棚の上の戸を
開けてみたら、いくつもの箱が重なっていた。
降ろして中を確かめたら、全部、会津塗り、木曽塗りの
漆器だった。しかもどれも紙に包まれたままで、
使った形跡がない。
おそらく来客用に買ったと見当がつくものの、
上等の器で料理をふるまうようなお客は
来たためしがない。
せいぜい近所のおばちゃんが、
昼間にお茶を飲みに来るくらいのものだった。
日の目を見ることなく、食器棚の中で、
ちんやりとしていたのだった。
さすがに捨てるわけにはいかず、とりあえず、
自宅に持ち帰ってきた。
それから3年、そのままにしていたものの、
使わないのももったいないと、
見るたびに気になっていた。
先日、意を決して、自宅でそれまで使っていた器を
ほとんど処分して、使うこととしたのだった。
とはいっても、男やもめの身では、
とても全部は使いきれない。
思案して、
こういう器にふさわしい料理を出してくれる、
馴染みの料理屋のご主人に、もらって
いただくこととした。
それにしても、自宅の晩酌の肴といえば、
豆腐に油揚げにおからくらいなものだった。
質素すぎて、塗りの器に申しわけのないことだった。
木曾漆器小脇に抱え薄暑かな。

5年前に父が亡くなり、その翌年に
母が介護施設に入居して、
実家が空家になっている。
この先、母が戻ることはないものの、
両親が苦労をして建てた家だから、
母が生きている間は、そのままにしてあるのだった。
空家になったあと、不要なものは片付けようと、
実家に足を運んだ。
物が多いのは知っていたが、いざ手をつけると、
あらためてため息が出た。
押し入れを開ければ、旅館でもないのに、
なんでこんなに敷布団掛け布団があるのか。
台所の戸棚を開けば、料理屋でもないのに、
なんでこんなに鍋釜、食器があるのか。
父が亡くなったあと、父の洋服は兄が
もらっていったものの、
着道楽だった母の着物が、タンスふたつ分、
ごっそり残っている。
一階の和室みっつに、それぞれ重たい座卓があって、
台所には、大きな丸いテーブルがある。
両親のおおきな洋服ダンスが、一階と、
二階の和室と納戸にあわせて九個あり、
とても一人では処分しきれない。
あとは、のちのち業者さんにお願いすることと
あきらめたのだった。
台所を片付けていたときに、食器棚の上の戸を
開けてみたら、いくつもの箱が重なっていた。
降ろして中を確かめたら、全部、会津塗り、木曽塗りの
漆器だった。しかもどれも紙に包まれたままで、
使った形跡がない。
おそらく来客用に買ったと見当がつくものの、
上等の器で料理をふるまうようなお客は
来たためしがない。
せいぜい近所のおばちゃんが、
昼間にお茶を飲みに来るくらいのものだった。
日の目を見ることなく、食器棚の中で、
ちんやりとしていたのだった。
さすがに捨てるわけにはいかず、とりあえず、
自宅に持ち帰ってきた。
それから3年、そのままにしていたものの、
使わないのももったいないと、
見るたびに気になっていた。
先日、意を決して、自宅でそれまで使っていた器を
ほとんど処分して、使うこととしたのだった。
とはいっても、男やもめの身では、
とても全部は使いきれない。
思案して、
こういう器にふさわしい料理を出してくれる、
馴染みの料理屋のご主人に、もらって
いただくこととした。
それにしても、自宅の晩酌の肴といえば、
豆腐に油揚げにおからくらいなものだった。
質素すぎて、塗りの器に申しわけのないことだった。
木曾漆器小脇に抱え薄暑かな。
松本まで。
皐月 7
久しぶりに松本へ出かけた。
信濃毎日新聞松本本社のギャラリー、
信毎メディアガーデンで、版画家吉田博と
息子の遠志の、作品展が開かれているのだった。
5年前、上田市立美術館の吉田博展を、
観に行ったことがある。柔らかな色彩の風景が、
静かに気持ちに染み入ってくる、好いひとときだった。
再び目に出来るのはありがたいことだった。
松本駅を出て、遅い昼飯をと、通りすがりの
蕎麦屋に入る。ビール一本と蕎麦で、
さらっと済ませるつもりだったのに、品書きを見たら、
地酒の品ぞろえが好い。
にしんの甘露煮をつまみに、サッポロのラガーと
今錦の純米を酌んで、かけで締めた。
手前そば・俊、接客も愛想好く、
今度は夕方におじゃましたい店だった。
吉田博さん、遠志さんの作品を観て、
メディアガーデンの中をうろつけば、
松本を舞台に撮影された映画、流浪の月の、
松坂桃李や広瀬すずの写真が、あちこちに
展示してある。
三階の松本ブリュワリーのテラスで、
ビールを飲みながら彼方の山並みを眺めていれば、
午後の陽射しが気持ち好い。松本は来るたびに、
清涼な空気に包まれているのだった。
メディアガーデンを出て、あてもなく、
女鳥羽川に沿って歩いていく。
橋を渡って善哉酒造の前をすぎて行くと、
飲み屋とスナックと中華屋の看板が
並ぶ通りに出た。
道の左右の街灯に、ようこそうら町へと
看板が下がっている。
昭和の風情を残すうら町に、人の気配がない。
その先のかどの八百屋の店先に、
いろんな花が並んでいる。野菜はトマト以外
見当たらなかった。
小路を抜けて市役所の前をすぎて、
松本城公園でひと休みする。
久しぶりの松本城を仰ぎ見れば、
小ぶりながらも、空を背景にそびえ立つ姿は、
清々と潔い。
松本に暮らす人たちは、この姿を見るだけで、
元気を頂けるのだった。ベンチに座って、
のんびりと城を眺めて過ごしていれば、
空に薄暮の気配が訪れる。
好い頃合いと立ち上がり、ふたたび女鳥羽川を渡って、
信毎メディアガーデンの前をすぎて、
そのちょい先の焼き鳥屋、末喜商店におじゃました。
飲み友だちのお身内のかたが営んでいて、
気さくなご主人にお相手してもらい、
旨い焼き鳥を食べながら、松本の宵に酔ったのだった。
薫風や黒白の城仰ぎ見て。
緑の上田で
皐月 6
月にいちど、連休を頂いている。
そのたびに、気に入りの上田の町へ出かけている。
長野駅に着いたら、折り良く、
東京行きの新幹線の発車が近い。
飛び乗ってひと駅、15分で着く。
上田駅を出たら、あいにく小雨がぱらついている。
蕎麦屋の塩田屋で、雨宿りがてらの昼酒と決めた。
ビール一本にお銚子二本。
もりで締めて外へ出たら、降りやむ気配がない。
夕方になったら、雨足がつよくなってきて、
急ぎ足で、飲み屋の花壱へ向かった。
上田に暮らす友だちと、久しぶりの一献なのだった。
愛想の好いご主人と、善光寺の御開帳の
話なんぞをしながら、
刺身をつまみに杯を傾けていれば、
じきに友だちもやってきた。酌み交わし、
酩酊して帰るころには雨も上がっていたらしい。
花壱に傘を忘れてきてしまった。
翌朝、国道沿いのすき家で朝飯を済ませ、
あてもなく、国道を渡って坂道を上がっていくと、
登校途中の小学生の列とすれちがう。
けっこうな急坂だから、毎日上り下りしていれば、
足腰が鍛えられて良いことだった。
坂を上ると、静かな住宅街にぶつかった。細い坂道を
下っていくと、後ろから自転車の高校生が二人、
けっこうなスピードでカーブを曲がって行く。
若いというのは素晴らしいと、じいさんの気分で
見送った。
そのまま、いつも世話になっている、
甲田理髪店におじゃまする。
年配のご両親と、息子さんで営んでいる床屋は、
行くたびに、散髪はお父さん、顔そりは息子さんと
決まっている。頭と顔をさっぱりとして、のんびりと
城跡公園に出かければ、城門と櫓が緑におおわれて、
お堀も、桜の木々の緑に囲まれている。
壮観な皐月の景色に、大きく息を吸い込んだ。
ひとまわり眺めてから、旧北国街道を渡り、
矢出沢川沿いの小道を行けば、
陽射しを受けて、軽やかに流れる川の音が
心地よい。
柳町からちょい北へ上がり、大輪寺に立ち寄った。
ここには、真田昌幸の夫人、寒翁院さまが眠っている。
高台に在る墓石の前で手を合わせ、
上田の町が平和でありますようお願いをした。
寺を出て、時計を見れば、頃好い時間となっている。
本日の昼酒は、中華料理の美華と決めていた。
朝から歩き回り、たくさんの緑に癒されて、
八宝菜と酢豚でビール。
まことに旨いことだった。
目に青葉耳にせせらぎ締め中華。
た幸さんへ
皐月 5
御開帳真っただ中の善光寺が、連日、
参拝客で賑わっている。
善光寺まで歩いて3分、毎日お参りに
出かけている。
日脚も伸びて、界隈の緑も冴えて、
穏やかな、好い季節となったのだった。
善光寺の裏手に、老舗の鰻屋がある。
夕方、境内を歩いていると、
風向きによって、香ばしいたれの匂いが漂ってきて、
そそられるのだった。
以前、両親と一緒に、
ビールを飲みながらうな重を食べた帰り道、
すぐに腹ぐあいがぎゅるぎゅるとおかしくなって、
あせったことがあった。
たまたまその日の体調と、鰻の相性が
合わなかったのか、以来足が遠のいている。
もともと胃腸が弱くて、油気のある食べ物に
調子をくずすときがある。
そうは言っても、鰻屋、蕎麦屋、寿司屋の一献は、
日本人に生まれた幸せだから、たまには鰻で
一杯やりたい。上等な肴で酌むのだから、
酒も旨い銘柄が好い。
久しく鰻も拝んでいないことだし。
週末、飲み友だちに声をかけて、
須坂のた幸へおじゃました。
須坂の古い町なみが好きで、ときどき足を運んでいる。
町の中を歩いていると、寂れた気配が漂っているものの、
行く先々に、蔵や神社に寺のある風景は気持ちが和む。
ちいさいけれど、好い展示を開いてくれる
版画美術館があり、
桜の名所の臥竜公園が在る。
この春は、どこもかしこも一斉に桜が満開になり、
臥竜公園の桜に足が届かなかったのは、
残念なことだった。
長野電鉄の、のんびりとした特急に揺られて、
須坂駅で降りて、
ひと気のない通りを歩いていく。
須坂の町は、駅から放射線状に同じような道が伸びて、
なんど歩いても、こっちで正しいのか不安になる。
案の定、この日もすこし遠回りをしながら、
おごそかな墨坂神社の前をすぎて、たどり着いた。
久しぶりのご主人夫婦に迎えられ、白木のカウンターに
落ちつくと、清楚な佇まいに、気分がさっぱりとする。
エビスで乾杯をして、卵で鰻を巻いたう巻きと、
あっさりと柔らかい白焼きと、旨いたれの効いたかば焼きで、
勝駒、林、而今、銘酒の杯をかさねれば、
ふだんより、すこし贅沢な酔いのひとときが嬉しい。
同行してくれた友だちも喜んでくれたから、
連れてきた甲斐もあったことだった。
長野から須坂まで20分ほど。短い電車の旅をして、
また訪ねてきたいのだった。
薄暮なる須坂の町の鰻かな。

御開帳真っただ中の善光寺が、連日、
参拝客で賑わっている。
善光寺まで歩いて3分、毎日お参りに
出かけている。
日脚も伸びて、界隈の緑も冴えて、
穏やかな、好い季節となったのだった。
善光寺の裏手に、老舗の鰻屋がある。
夕方、境内を歩いていると、
風向きによって、香ばしいたれの匂いが漂ってきて、
そそられるのだった。
以前、両親と一緒に、
ビールを飲みながらうな重を食べた帰り道、
すぐに腹ぐあいがぎゅるぎゅるとおかしくなって、
あせったことがあった。
たまたまその日の体調と、鰻の相性が
合わなかったのか、以来足が遠のいている。
もともと胃腸が弱くて、油気のある食べ物に
調子をくずすときがある。
そうは言っても、鰻屋、蕎麦屋、寿司屋の一献は、
日本人に生まれた幸せだから、たまには鰻で
一杯やりたい。上等な肴で酌むのだから、
酒も旨い銘柄が好い。
久しく鰻も拝んでいないことだし。
週末、飲み友だちに声をかけて、
須坂のた幸へおじゃました。
須坂の古い町なみが好きで、ときどき足を運んでいる。
町の中を歩いていると、寂れた気配が漂っているものの、
行く先々に、蔵や神社に寺のある風景は気持ちが和む。
ちいさいけれど、好い展示を開いてくれる
版画美術館があり、
桜の名所の臥竜公園が在る。
この春は、どこもかしこも一斉に桜が満開になり、
臥竜公園の桜に足が届かなかったのは、
残念なことだった。
長野電鉄の、のんびりとした特急に揺られて、
須坂駅で降りて、
ひと気のない通りを歩いていく。
須坂の町は、駅から放射線状に同じような道が伸びて、
なんど歩いても、こっちで正しいのか不安になる。
案の定、この日もすこし遠回りをしながら、
おごそかな墨坂神社の前をすぎて、たどり着いた。
久しぶりのご主人夫婦に迎えられ、白木のカウンターに
落ちつくと、清楚な佇まいに、気分がさっぱりとする。
エビスで乾杯をして、卵で鰻を巻いたう巻きと、
あっさりと柔らかい白焼きと、旨いたれの効いたかば焼きで、
勝駒、林、而今、銘酒の杯をかさねれば、
ふだんより、すこし贅沢な酔いのひとときが嬉しい。
同行してくれた友だちも喜んでくれたから、
連れてきた甲斐もあったことだった。
長野から須坂まで20分ほど。短い電車の旅をして、
また訪ねてきたいのだった。
薄暮なる須坂の町の鰻かな。
久しぶりの友だちと
皐月 4
善光寺の御開帳が始まってひと月余り。
コロナ禍の中、出だしの人出は静かだったものの、
4月の半ばを過ぎたあたりから、
すこしづつ参拝客が増え始め、
ゴールデンウイークを境に、どーんと
賑やかになった。
自宅の前の道路は、朝から車が数珠つなぎになり、
界隈の蕎麦屋はどこも昼前から行列ができ、
長野名物のおやきを売る店も、お客が引き切らない。
連休のさなか、宮城に暮らす友だち家族が、
参拝がてら訪ねてきてくれた。
酒屋を営んでいるかたで、普段世話になっている、
長野の酒屋の友だちを通じて、
知り合ったのだった。
いつも日本酒を愛飲している。
いちばん好きな銘柄が、宮城の伯楽星で、
何回かお蔵見学に足を運んだ。
そのたびに、お世話になっていたのだった。
この春先の東北の地震で、店が大きな被害を受けた。
当日送られてきた写メで、店内の悲惨な有様を知り、
言葉を失った。
この15年の間に、宮城は4回もの大きな地震に
やられている。そこに重ねてのコロナ禍で、
さらなる打撃を受けてしまった。
久しぶりにお会いして、近況を尋ねたら、
地震の後始末も商売も、
胸をなでおろすには、まだまだ時間がかかると
うかがえたのだった。
夕方、長野の酒屋の友だちが、宴の席を設けてくれた。
同行してきた娘さんに息子さんは、
それぞれ、社会人に大学生に成ったという。
前回会ったのは、まだ子供のときだったから、
はきはきと受け答えをする姿に、
りっぱになったなあと感心した。
娘さんは、将来飲食店を開きたいという。
ジビエ料理に興味があるといい、おっ、
長野もジビエが盛んだぞ。
今度訪ねてきたときは、ジビエの店に
案内しなくてはいけない。
息子さんは、大学で経営の勉強をしているといい、
将来は酒屋を継ぐのかな。
きびしい現状だけど、お父さんを
支えてあげたらいいなあ。
このたびは、新しく伴侶になるかたも連れてきてくれた。
地震にコロナで苦労の日がつづく中、
めでたい報告が聞けたのは、こちらも嬉しいことだった。
温かなひとときを頂いて、宮城詣でに思いが募るのだった。
ひさかたの友訪ね来て五月かな。
菜の花公園まで。
皐月 3
休日、菜の花を眺めに飯山へ出かけた。
毎年5月初めの恒例行事なのだった。
電車を降りたら、飯山駅の観光案内所で
クロスバイクをレンタルする。
菜の花公園までの7キロの道のりを、
のんびりペダルをこいで行く。
千曲川沿いの堤防道路を進んでいけば、
両脇の畑の木々から鳥のさえずりが聞こえる。
水のたまった田んぼから、のんびりとした
蛙の鳴く音が聞こえてくる。
心地よい風を感じながらたどり着くと、
ベンチに座って菜の花畑に見入る人に、
シートを広げてくつろぐ人に、連休中の
家族連れの姿が多い。
まさに、
今が見ごろの黄色の花畑のむこうには、
まだ緑の浅い里山があり、その隙間から、
残雪を抱えた彼方の山並みが顔を出している。
花畑から見下ろせば、おおらかな千曲川の
流れがある。
となりの東小学校の校庭では、運動着姿の
ちびっ子たちと先生が、わいわいと
走りまわっていた。
今年もまた、北信濃の穏やかな、
おそい春の景色に、癒されたのだった。
ひと回り、鮮やかな黄色の景色を堪能して、
ふたたびペダルをこいで行く。
国道沿いの道の駅にたくさんの車が停まり、
お客で賑わっている。
そのまま進んで、市街地に入ったら、
商店街にさっぱりと人の姿がない。
陽気なBGMだけが、むなしく鳴り響いていた。
飯山駅に戻ったら、
観光案内所にクロスバイクを返却して、
隣の、駅ナカ酒場えっぺにおじゃまする。
生ビールを飲みながら品書きを見たら、
飯山市はサバ缶の消費量が日本一と
書いてある。
へえそうなんだ。
きっと、根曲がり竹の出回る今ごろに、
いちばん消費されると見当がつく。
細い根曲がり竹とサバ缶を和えたみそ汁は、
北信濃の、この時期の名物なのだった。
レモンサワーを飲みながら、
サバカレーうどんで腹を満たして店を出た。
仏壇通りに並ぶ寺でも巡ってみるかと
思い立ち、歩きだしたら、
いきなりぽつぽつ降ってきた。
空を見上げたら、さっきまでの晴天に、
薄黒い雲が広がって、雨足がつよくなってきた。
寺巡りは次回とあきらめて、
ふたたび駅へ引き返したのだった。
菜畑に憩う親子や北信濃。
お蔵さんと飲み会を。
皐月 2
毎日、日本酒を酌んでいる。
ここ最近、つくづくありがたいと思うのは、
地元長野の銘柄が、ほんとに
美味しくなったことだった。
世代が変わり、お蔵の跡取りさんや若いかたが
造りに携わるようになってから、
目を見張るように味わいが良くなっている。
日本酒に溺れるきっかけになったのは、
35年前に、友だち宅で供された、
宮城の銘柄を利いたことだった。
それから旨い味を求めて、手あたり次第に
利いてみたものの、
残念ながら、当時、名を馳せていた
県外の銘柄に比べると、長野の酒はあか抜けない
味だった。
ひと口飲んで、金返せの気分になった
銘柄もあって、
その頃は、もっぱら石川や新潟、福島に
宮城あたりの銘柄ばかり酌んでいた。
ところが何年か経ったのち、
おっ、これ旨いという銘柄がぽつぽつ出始めて、
長野県の東西南北、今では両手で数えられないほど、
旨い味が増えている。
酒徒として、長野に生まれて幸せと、
こんにちほど思えるときはないのだった。
中には、いまだ昔と変わらぬ味を
醸し続けるお蔵もあって、飲む機会があると、
昔の長野って、みんなこんな味だったと、
妙に懐かしい気分になってしまう。
長らく酒を飲んでいて、ありがたいのは、
馴染みの酒屋や飲み屋の計らいで、お蔵さんに
会えることだった。
ふだん知ることのない,造りの苦労話を聞きながら
杯を交わしては、丁寧に飲まなきゃいけないと
思いながら、酩酊しては記憶をなくしている。
週末の土曜日、仕事を早く終いにして、
新幹線で上田へ向かった。
馴染みの飲み屋のご主人がたと、小布施町で豊賀を醸す
高澤さんご夫妻と、地元上田で、登水を醸す
和田さんと宴があったのだった。
駅前の、和田さん贔屓の幸村で、
ひさしぶりの乾杯を交わした。
ビールでのどを湿らせたら、
和田さんの登水を皮切りに、長野の銘柄を利いていく。
旨い肴をつまみに、お蔵さんの裏話なんぞを聞きながら、
好い味に酔っぱらった。
この冬はことさら寒さがきびしく、造りに関わる
かたがたもつらい作業の日々だったとうかがえる。
その甲斐あって、この夜酌んだ銘柄は、
どれも素敵な味だった。
幸村のアルバイトの学生さんが、
長野の酒を飲んで、日本酒に目覚めましたと
言っていた。
そうだろそうだろ、長野の酒は好いでしょ。
若者の台詞に、こちらも嬉しくなったのだった。
立夏来る酔いの後半記憶なし。
緑の季節に
皐月 1
玄関先のガマズミの蕾が、日ごと大きくなっている。
向かいの松木さん宅のツタの葉もつやつやと
増えてきた。
氏神さんの高々としたケヤキも、気がつけばすっかり
緑を茂らせて、鶯の爽やかな鳴き声が
路地の空に響いている。
緑の季節を迎え、気分も清々するのだった。
休日、介護施設に入居している母を
お医者に連れて行き、定期検診を済ませたら、
その日の用事はおしまいとなる。
母を施設に送り届けたら、いつものように、
蕎麦屋の昼酒に出向いた。
善光寺の御開帳が始まって、黄金週間になり、
門前に参拝客が増えてきた。
界隈の蕎麦屋にも昼前から行列ができて、
ゆっくりの昼酒はなかなかきびしい。
ちょいと離れた権堂のかんだたへ、
期待を込めて伺えば、
幸い、カウンターに空きがあってほっとする。
生ビールでのどを潤して、蕎麦湯と蕗味噌を合いの手に、
亀の海の春酒なんぞを酌んでいれば、
ゆるゆると、気持ちがほぐれてくるのだった。
この4月で60歳になった。
子供の頃、還暦といえば、もう立派なおじいさんという
印象があった。
いざ、こうして迎えてみると、へろへろに酔っぱらって
記憶をなくしてばかりいて、とてもそんな歳になったと
思えない。
いいのかこんな還暦で・・・
いや、まったく良くないだろうと、
今さらながらに我が身がなさけない。
あんなことやこんなこと、なんでしちゃったのかなあ。
振り返れば、我が身を見失った事柄を、
何度も繰り返して、歳を重ねてしまった。
その時々に、身を案じて、
声をかけてくださったかたもいたのに、
耳を傾けず、
心配と迷惑をかけてしまったのは、
取り返しようのない、申しわけないことだった。
還暦といっても、貧乏だから死ぬまで
働かなくてはいけない。
悲しいことに貯金がないが、ありがたいことに
借金もない。中途半端な気持ちで求めていた、
かつてのような余計な欲もなくなった。
せいぜい蕎麦屋の昼酒や、馴染みの飲み屋の一献で、
静かにひととき過ごせれば、
それで十分、身の丈に合った幸せと感じている。
これからは、日々の屈託を減らして、
引き算よろしく風通しの良い気持ちで、
暮らしていきたいと思うのだった。
誕生日、遠く近くの親しいかたがたが、
温かな好意を届けてくださった。
ぐずぐずと、後悔多い人生の中、
今有る縁を思えば、
信じられないほど恵まれたことだった。
ありがたいことと、
つくずく胸に染み入ってくる。
余生はせめてもの気持ちを
尽くすよう、言い聞かせていることだった。
還暦や赤いTシャツ春行きて。