須坂で鰻を
葉月 7
お盆休みの最終日、須坂へ出かけた。
長野電鉄の善光寺下駅から電車に揺られて
20分。千曲川の鉄橋を渡って行くと、
川面に暑い日差しが照り返し、空にはでかい積乱雲が
沸いている。
駅を出ると、いつものようにひと気がない。
この町はそこが好い。
かつて養蚕で栄えた町は、そこかしこに名残りの
土蔵が残っていて、街並みに落ちついた風情がある。
人混みが苦手だから、ゴールデンウィークやお盆を
はさんだ夏休みなど、普段暮らしている
善光寺界隈が人であふれるときに、思い出しては
訪ねているのだった。
ゆるやかな坂道を上がっていくと、こじんまりした
町の中で、県立須坂病院のりっぱな建物が目を引く。
そのわきの石畳の通りを歩いて行くと、
金物屋とおばさん向けの洋品店が店を開けていた。
八百屋の角を曲がって劇場通りを上がって行く。
かつて須坂劇場が在った通りで、当時の人気歌手や
歌舞伎一座の興行でおおいに賑わっていたという。
歩く先々に、閉店した店と、ひっそりと商売をしている
店が並んでいる。
通りの入口に往時を偲ばせる、劇場通りのアーチが
残っていた。
以前から気になっていた、昔ながらの食堂、東京庵は、
暖簾が出ているのに、入口に、都合によりしばらく
休みますの知らせがあった。通りから、古びた家屋の
並ぶ小路を抜けて駅まで戻っていくと、
廃業したお蔵の、松葉屋の軒先の杉玉が、哀愁を
誘ってくる。
跨線橋を渡って、さて、夏バテ防止に栄養を。
本日の昼酒に、鰻のた幸におじゃました。
カウンターの隅に落ちついて、エビスを一本。
飲みながらご主人と話をすれば、お盆の連休中は、
うな重の持ち帰りの注文が多かったという。
帰省してきた家族を迎え、おじいちゃんおばあちゃん、
息子夫婦や娘夫婦にかわいいお孫さん、
みんなそろって美味しいご飯どきを過ごしたことだった。
う巻きをつまみに越後の越路乃紅梅を酌み、
白焼きをつまみにおなじく越後の〆張鶴を酌んだ。
一輪挿しのユリの、ほのかな香りが心地好い。
かば焼きをつまみに酌み干して、なんとも贅沢な
お盆休みの締めとなったのだった。
静かなる町の鰻や盆休み。
お盆休みに
葉月 6
お盆休みの初日、菩提寺の寛慶寺へ出かけた。
自宅から歩いて1分余り。道路が混みあうこの時期、
菩提寺が近いのはありがたいことと、毎年思っている。
祖父母と父の墓に花を添えて、ろうそくと線香に
火をつけて手を合わせた。
以前は、迎え盆の早朝、父母と一緒にお参りに来ていた。
父が亡くなり、母と二人で墓参りをしていたものの、
その母も、介護施設に入居してからすっかり足が弱くなり、
この頃はひとりの墓参りが続いている。
親との当たり前だった日常が、日を重ねるにつれ
なくなっているのだった。
草津温泉に、ゲストハウスを営む友だちと、蕎麦屋を
営む友だちがいる。このお盆休みに、熱い湯に
浸かりがてら会いに行こうと思っていたのに、
台風の到来で天気がよろしくないという。
日を改めることとして、観光客で混雑する善光寺門前を
離れて、上田の町で過ごすことにした。
午後の電車で上田に行き、夕方、馴染みの寿司屋の萬寿の
暖簾をくぐった。
お盆休みで、久しぶりに家族が集うお宅の持ち帰り用の
寿司を、ご主人と息子さんがせっせと握っている。
カウンター越しに眺めながら、黒ラベルを空けて、
寿司をつまみながら、澤の花の純米の澄んだ味に酔いしれた。
翌朝、ぶらぶらと散歩に出た。駅前から飲食店の並ぶ
通りをすぎて上田アリオに行くと、朝から家族連れの
買い物客で賑わっている。暇つぶしに映画でも観るかと
隣接するTOHOシネマズ上田に行って、上映されている
作品を眺めたら、綾瀬はるか主演のリボルバー・リリー
というアクションものにそそられた。
次の上映時間は14時40分。確かめて、上田城跡公園へ
向かった。公園のお堀のまわりを歩いていると、地元の
人に混ざって観光客の姿も多い。
多いと言っても、住んでいる善光寺門前の混雑ぶりに
比べれば、のどかなものだった。ひとまわりして
城門を出たら、真田幸村公が観光客の記念写真の求めに
ひっきりなしに応じていた。このくそ暑い日に、
勇ましい戦の格好を着込んでいるからご苦労さまですと
眺めてしまった。公園を出れば少し早い昼どきで、
さてどこでビールを飲もうかと思案しながら歩いていたら、
市役所のはす向かいの福楼が目に留まった。
初めての中華料理屋で昼酒と相成ったのだった。
台風の行方恨めし盆休み。
上田花火大会
葉月 5
毎年8月5日に、上田の花火大会に足を運んでいる。
千曲川の河川敷で、つぎつぎと上がる見事な花火を
堪能しているのだった。
今年は、東京に暮らす甥っ子夫婦も誘って
出かけることにした。
当日の昼間、上田駅から別所線に乗り換えて
別所温泉まで足を延ばした。住宅街を抜けていくと、
塩田平が見えてくる。
清々と広がる田畑の景色を見ていると、夏の暑さも
忘れそうになるのだった。
里山の空に、夏の雲が穏やかに沸いていた。
駅を出て、ひと気のない坂道を上がっていくと
汗が噴き出してくる。参道を抜けて北向観音への
階段を上がって行くと、作業服姿のお兄さんたちが、
盆踊りのやぐらを組み立てていた。
観音様にお参りをして、再び坂を下った。
甥っ子が、遅い昼飯にラーメンが食べたいという。
それではと、駅のそばの、あいそめの湯に向かった。
小さな温泉町は、週末でも混みあわないのが
好い。歳をしたら遠出をせずに、この地で湯を浴びながら
質素に暮らすのも、それはそれで贅沢なこと。
地元のおじいさんたちがうらやましいことだった。食堂で
3人でラーメンをつまみにビールを飲んで、湯に浸かり
汗を流したら、再び別所線に乗り込んで上田へ戻る。
薄暮の駅前にはすでに、花火見物の人たちが集まっている。
中には、自宅の前にイスとテーブルを出して、
バーベキューをやりながら観覧しようとする家族もいて、
長閑で好い。開始時間が近づくにつれて、
堤防道路が人で埋め尽くされてくる。それでも毎年人出に
余裕があって、川風を感じながら見物できるのも、
ここの花火の好いところだった。花火の開始を待つ間、
ずっとBGMで童謡が流れている。
いったい、このセンスのない選曲は誰がしているんだろうと
怪しむのも、毎年のことだった。
上田市の土屋市長の挨拶が終わり、いきなり一発目から
迫力あるスターマインが打ち上がり、花火大会が始まった。
上田の花火はテンポが好い。どんどん打ち上げられて、
あっという間に15分の中休み。
中休みの間、ずっとBGMで昭和歌謡が流れている。
いったい、このセンスのない選曲は誰がしているんだろうと
怪しむのも、毎年のことだった。
後半になると、花火がさらに迫力を増してくる。
毎年、地元の上田市と長野市と須坂市の花火会社が
打ち上げをしている。今年も、それぞれ見事な花火を
披露してくれて、ことに長野市の青木煙火さんの作品は、
例年にも増して素晴らしかった。
甥っ子夫婦も打ちあがるたびにすごいすごいと声をあげて
喜んでいる。
好い夏の思い出になったようで、嬉しいことだった。
花火師の腕に感嘆止まぬなり。
上田わっしょいに
葉月 4
この夏、新聞やニュースを観ていると、
あちこちで夏祭りが開かれて、多くの人で
賑わっているという。
コロナ禍で、祭りも中止になっていた。
久しぶりの再開を、皆が待ち望んでいたのだった。
7月さいごの土曜日、上田へ出かけた。
夏の恒例行事、上田わっしょいが、4年ぶりに
市街地で開かれるのだった。
それぞれの町の連が、わっしょいわっしょいの
音楽に合わせて市街地の通りをたてよこに
踊っていく。
どこぞの飲み屋で一献引っ掛けて、踊りのかたがたを
眺めて祭りの雰囲気を楽しむか。思案しながら
歩いていたら、犬を連れたおばあさんと小さな女の子に
出くわした。よく見たら、馴染みの寿司屋の萬寿の
お母さんと、孫のなおちゃんだった。
出会ったからには、今宵のひとときは萬寿で
過ごさなくてはいけない。お二人と連れ立って
そのまま暖簾をくぐった。
カウンターの隅に落ちついて、黒ラベルを飲みながら
見たら、日本酒の鎮座する冷蔵庫に、
祝甲子園出場、上田西高校のポスターが貼ってある。
先日、長野県予選の決勝の接戦を制して、切符を
手にしたのだった。
上田西、やりましたね。萬寿のご主人に声をかければ、
甲子園でも頑張ってもらいたいと愛想をくずす。
鯨のベーコンをつまみに地酒の亀齢を酌む。
上田の柳町にお蔵を構える岡崎さんの亀齢は、
人気が有りすぎて、とても入手困難な銘柄だった。
暮している長野市の飲み屋ではなかなか見かけないのに、
上田に来ると、この寿司屋でも、馴染みの蕎麦屋でも、
普通に冷蔵庫に置いてある。
つい注文してしまうのだった。しばらくしたら、
近所のマンションに住む飲み友だちが来てくれた。
小学校6年生の息子のお母さんで、
息子は友だちみんなと祭り見物に出かけたという。
友だちとつるんで出かけるようになったかと、
成長ぶりにしみじみした。
あさがおの柄の浴衣が好く似合い、鯵のたたきを
つまみに、佐久の黒澤の杯を交わした。
程好く酔って店を出れば、通りは連なる踊りの集で
盛り上がっている。大人から子供まで、笑顔の姿を
眺めていれば、
夏はこうでなくっちゃねと、こちらも楽しくなるの
だった。
夏祭りまずは寿司屋の一献で。
土用の丑の日に
葉月 3
毎日、友だちの営むセブンイレブンの
世話になっている。
毎年、土用の丑の日が近づくと、鰻の弁当を
買っている。この夏は、ご飯はいらないので
かば焼きを注文しておいた。
近ごろのコンビニのおかずは、どれも旨い。
鰻も例にもれず、そこそこ値が張るものの、
持ち帰って、麦焼酎のロックを飲みながらつまめば、
身がふっくらと柔らかく、美味しくいただいた。
子供の頃、美容師をしていて羽振りの良かった母が、
ときどきうな丼をふるまってくれた。当時ひいきに
していた鰻屋は、権堂アーケードに在った、
うな亭さんという店だったような。出前をしてもらい、
めったにないごちそうが嬉しかった。
大人になると、いつの頃からか土用の丑の日に、
実家でみんなでうな重を食べるのが習慣になった。
実家の近所に鰻屋が在って、同じく母がふるまってくれた。
母が病気を患って仕事をやめると、ケチだった父が
財布を握るようになった。鰻屋の高価な味は縁が切れて、
実家の近所の仕出し屋から、手ごろな鰻弁当を取るように
なった。おとうさん、ケチケチしないで、私がお金を
出すからと母が言っても、もう年金暮らしなのだから、
贅沢は禁物だと取り合わなかった。
そんな父の人柄も、亡くなった今では懐かしい思い出に
なっていることだった。
7月30日の土用の丑の日当日、長野電鉄に乗って
須坂へ出かけた。贔屓の鰻料理屋、た幸で一献と
目論んだのだった。
須坂駅を出て店までの道を歩いて行けば、
太陽光発電のサンジュニアの家屋の上に、りっぱな
入道雲が沸き上がっていく。
店に着くと、すでに個室から賑やかな先客たちの声が
聞こえる。
カウンターの隅に落ちついて、サッポロラガーで
乾いたのどを潤せば、相次ぐお客の注文に、
ご主人夫婦もいそがしい。
鰻の頭の煮つけとう巻きを出していただいて、
日本酒に切り替える。この日は気に入りの、
越後は村上の〆張鶴が有るというから、さっそく注文する。
さっぱりとした鰻の白焼きもつづいて出していただき、
きりっとした辛口の、〆張鶴の旨味が好く合う。
つづいてかば焼きも出していただき、酒を富山の高岡の
勝駒に切り替える。
土用の丑の日を、カウンターで静かに
堪能できるのは、なんとも贅沢なことだった。
清々と贔屓の店の鰻かな。
上田の祇園祭に
葉月 2
この時期、あちこちの町で、夏の疫病を払う
祇園祭が開かれている。7月の上旬、
京都の八坂神社の分社の、長野市の弥栄神社の
祇園祭が行われた。日本舞踊の踊り手さんを
乗せた屋台が町を巡行して、善光寺へやって来る。
その先頭に立つのがお先乗りと呼ばれる
神様の代理の男の子で、今年は、昨年世話になった
皮膚科の病院の先生の息子さんが担われた。
暮らしている東之門町からもお先乗りの付き添いに
何人か出ていた。この暑い中、羽織袴姿で
一日町中を歩くのだから、終わって戻って来る
頃には、みんな汗だくのへとへとになっているの
だった。
7月22日、上田市の祇園祭に足を運んだ。
小さな城下町の祇園祭は、それぞれの町から
神輿が出て、市街を練り歩く。
新幹線で長野駅から15分。上田駅を出ると薄暮の
駅前に浴衣姿の女の子や、Tシャツ姿の男の子たちが
集まっていて、すでに祭りのムードが高まっている。
通りを上がって行くと、海野町商店街の道に、
本町の神輿集団の姿が有って、友だち母子の
姿を見つけた。
おかあさんはきりっと髪を結って、ぱりぱりの
白い法被が好く似合う。
子供神輿の先頭に立つ息子は背が高く、日焼けした
面がまえが好い。
本町には、馴染みの寿司屋の萬寿が在る。
旦那さんいるかなあと探したら、おんべを持った姿を
見つけて、本日の神輿の先導役なのだった。
祭りの始まりを眺めてから、フレンチのル・カドルの
階段を上がった。料理ができるまでの間、
テラスで神輿の巡行を眺めていた。担ぎ手たちの
威勢のいい掛け声が響き、町が熱気に包まれる。
階下の歩道をたくさんの人が行き来している。
牛串屋の屋台に長~い列ができていた。
店内に戻ると、外の喧騒がまるで聞こえず、
久しぶりの旨い料理にワインもすすむ。
ゆっくり食事を楽しんでいたら、いつの間にやら
祭りの終わりの時間になっていた。
ウイスキーのロックで締めて外へ出れば、
行きかう人々の、祭りを満喫した気配が心地好い。
来週は上田わっしょいで、踊り手たちが町を沸かす。
その次の週は千曲川河川敷の花火大会。
上田の夏は熱いですなあ。人垣を縫って駅へ
戻ったのだった。
祇園祭寿司屋の大将おんべ振り。
肉屋のレストランに
葉月 1
自宅のすぐそばに、牛見精肉店が在る。
老舗の肉屋で、男兄弟3人のご夫婦と、
長らく勤めている従業員で営んでいた。月日を重ねる
間に、長男ご夫婦と次男が彼岸に行ってしまい、
昨年まで、残されたかたがたで営業を続けていた。
肉だけでなく、野菜や豆腐に魚の切り身も売っていて、
コロッケやとんかつにメンチカツなど、総菜も
充実していた。
ちょいと大根一本、きゅうり一袋買いに行ったり、
友だちが酒をぶら下げて訪ねて来たときに、
総菜の盛り合わせを作ってもらったり、昨今、
個人の商店が軒並みなくなる中、重宝していた。
ところが、昨年の12月に、唯一男の身内で元気だった
三男のかたが、突然亡くなってしまったのだった。
それから入口に、しばらく休養しますの貼り紙が貼られ、
灯りのつかない日がつづいていた。
近所のかたと顔を合わせるたびに、牛見さん、もう
閉店しちゃうのかなあと、かならず話に出た。。
もともと、店自体の売り上げはかんばしくなかった。
景気の良かったときは、善光寺のまわりの宿坊にも
泊り客がたくさん訪れて、肉や総菜の注文が
途切れなかった。大型のスーパーがあちこちに出来て、
お客もそちらに流れていった。
病院や給食センターへの卸しの売り上げで、店の
売り上げを補ってこられたのだった。そんな話を
店のかたから聞いたことがあったから、
このまま閉店してもやむなしの気分で、毎日店を
眺めていた。
ところがそれからしばらくした春のはじめ、
工事関係者とおぼしき人たちの姿を店内に
見かけるようになった。店内の片づけが始まって、
なにやら動きが出てきた。しばらくして近所のかたが
情報を仕入れてきて教えてくれた。
亡くなった三男さんの息子さんが、長野駅に向かう
途中の場所でレストランを営んでいた。
評判の良い店で、予約をしないと入れない人気店だった。
その息子さんが、これまでの店を引き上げて、
肉屋を改装してレストランを始めるというのだった。
肉と総菜も数を絞って販売するという。
5月の連休明けにオープンするといい、
店がなくならずに、近所のかたがたも胸をなでおろした
ことだった。オープンしてまもなく、
お祝いのワインをぶら下げておじゃました。
店内は見違えるほどおしゃれになって、生ハムでビールを
飲みながら、しげしげと眺めた。
旨い料理でワインで酔って、自宅まで30秒ですぐ昼寝。
なんとも素晴らしいことだった。
新店の華やぎ眺めビールかな。