酩酊の果てに。
2025年03月28日
へこりと at 10:30
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弥生 6
彼岸前の週末、久しぶりに高校の同級生と宴を開いた。夕方、
仕事を終えて馴染みのべじた坊に行けば、友だち四人、すでに
ビールのジョッキを空けている。四人とも、定年退職した後に、
第二の職場で働いている。そのうち二人は、この三月で辞めると
いうのだった。
辞めた後、ひとりは畑仕事をやるといい、もう一人は住んでいる
地区のNPO法人に勤めるという。仕事を辞めてもまだ頭と体を
使うんだ。仕事を辞めたら、朝寝朝酒朝湯の小原庄助さんに
なりたいと思っている身とは出来が違うと感心してしまった。
そんな偉い友だちも話を聞けば、酔っ払ってのしくじりがあると
いうからほっとした。山の町に暮らすかた二人、それぞれバスを
乗り過ごし、隣の村まで行っちゃったり、自宅のはるか
先まで行ってしまったり。
もうひとりの友だちは、電車を乗り過ごし新潟県の妙高まで行って
しまったという。
妙高高原駅を出て途方に暮れていたら、近くで電話をかけている人が
いた。偶然同じ町のかたで同じく乗り過ごしたという。
タクシーを呼んだというから、同乗させてもらい事なきを得たの
だった。友だちの町には飯山線も走っていて、長野県の最北端、
飯山まで行ってしまったこともあるという。残念、できれば終点の
越後川口まで行ってもらいたかったなあ。
さすがに歳を重ねて、みんなそこまでの深酒は出来なくなった。
昔のしくじり話に、苦笑いの杯を重ねたことだった。
この彼岸の十九日、父の八回目の命日を迎えた。前日、
覚えていてくれた友だちから、お墓に供えてくださいと花が
届いたのだった。
心遣いに感謝して、翌日菩提寺に行って、墓前に手向けさせて
いただいた。ついこの間見送った気がするのにもう八年。
月日があっという間に過ぎている。
酒好きだった父は現役で働いていた頃、毎晩酔っ払って帰って
きた。
タクシーで帰ってくれば良いものを、薄給でつましい柄はいつも
歩いて帰って来て、転んで額を割ったり腕の骨を折ったり、
用水路に落ちて救急車で運ばれたり、母もそのたびに気を病んで
いた。
そんな姿を子供の頃にさんざん見ていたのに、すっかり父と同じ
しくじりな酔っ払いになっていた。血筋というのはつくづく恐ろしい。
今さらながらに思うのだった。
乗り過ごし酔いも醒めるや夜半の春。
久しぶりの銘柄を。
2025年03月25日
へこりと at 08:59
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弥生 5
母が亡くなってこの冬の間、空き家になった実家の片づけを
していた。困ったのは、母が買いこんだたくさんの着物だった。
高価な品ばかりだから捨てるには忍びない。
処分をするのが厄介だと自身のブログで愚痴ったところ、
長い間、こちらの拙劣な文章を読んでくださっているかたから、
うちの母が着物で小物を作っています。よかったら引き取ります
と、コメントを頂いたのだった。
それまでコメントのやり取りはあったものの、お会いしたことの
ないかただった。お母様のお役に立てるならこちらも嬉しいし
ありがたい。後日、こちらの連絡先をコメント欄で伝えたところ、
電話を頂き、訪ねてきて来てくれたのだった。
ブログといえば、酒と飲み屋のネタばかりで、すっかりヨッパな
柄と知られている。なんと手土産に一升瓶を持ってきてくだ
さった。越後は長岡の越乃白雁。実に久しぶりの銘柄だった。
三十年ほど前に、新潟の上越へ向かって車を走らせていたところ、
国道沿いの一軒の酒屋が目に留まった。
あれこれ旨い酒を探し求めていた頃で、迷わず車を停めた。
店に入ったときに、初めて目にしたのがこの銘柄だった。
越後の酒といえば、こちらがまだ日本酒に目覚める前から、越乃寒梅、
雪中梅、峰の白梅、〆張鶴あたりが有名だった。長野では手に入りづらく、大手の酒屋では定価よりもずいぶん高い値段で売っていた。
その後、同じ長岡の久保田が名を馳せて、地酒に力を入れ始めた長野の
酒屋でも扱うところが現れたのだった。
以来、越後の端麗辛口が席巻していた時代が長らく続いていた。
帰宅して、初めて口にした越乃白雁は、端麗辛口の例にもれず、すっきりと
した味わいで旨かった。とは言ったものの、しょっちゅう上越まで
酒を買いに行くことも出来ず、当時住んでいた場所からほど近い酒屋が
〆張鶴を扱っていると知り、〆張鶴を酌むことが多かった。まさか三十年
ぶりに越乃白雁を口にできるなんて思わなかった。
初めてお会いしたかたの気遣いが嬉しかった。
その日の晩、久しぶりに利いてみたところ、すっきりとした、飲み飽き
しない口当たりに杯が進む。一升瓶がすぐに空になりそうなので、
一日一合と我慢して酌んだのだった。
後日、着物を引き取りに来てもらい、気がかりごとがなくなって感謝を
したことだった。
朧夜や三十路の頃の酒を酌み。
女将さんを偲んで。
2025年03月21日
へこりと at 08:32
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弥生 4
久しぶりに上田へ出かけた。
駅を出て、すぐそばの蕎麦屋の東都庵へ行ったら、
本日休業とある。昨日の今日だからしょうがないかと
合点がいく。この店の女将さんが亡くなってしまい、
昨日が告別式だったのだった。通りを上がって角を曲がったら、
おなじく蕎麦屋の塩田屋はちょうど開店したところだった。
この日の口開けさんになって、テーブルに落ちついた。
ビールを飲みながら店のお母さんと話をすれば、店を始めて
もうじき百年を迎えるという。昭和二年の創業で、
お母さんで三代目、一緒に働く娘さんが四代目というから
たいそうな歴史があるのだった。昔は別の場所で営んでいて、
二度移転してから昭和四十年代にここに落ちついたという。
食材や光熱費の価格の高騰が続く中、壁にかかった品書きを
見れば、良心的な値段で営んでいるのがわかる。おまけに
酒を頼むたびにご好意の小鉢を出してくれて、この日も
ビール一本とお銚子二本の注文に、ひじきやらひたし豆やら
漬物やらおからやら、八品もの小鉢を出してくれた。あとの
小鉢はなんだったか、多すぎて忘れてしまった。締めに、
以前から気になっていたカレーライスを注文したら、辛味の
効いた美味しい味だった。店を出て、甲田理髪店で散髪をして、
城跡公園に行けば、まだ梅の蕾もついていないままだった。
夕方、馴染みの飲み屋の幸村で酔っ払った翌朝、部屋の
カーテンを開けたら、さんさんと雪が降って道に積もっている。
急な寒の戻りに散歩の気分も失せて、ワイドショーを観ながら
だらだらとトリスの水割りを飲んで時間をつぶした。
開店時間を見計らった昼どき、再び東都庵に行ったら、今日は
暖簾が出ていてほっとした。店に入って、女将さんの旦那さんと
一緒に働く娘さんにお悔やみを述べた。折よく地酒の和田龍を醸す
お蔵さん、和田さんとご一緒になった。女将さんとは先月上田の
馴染みの飲み屋で偶然お会いしたばかりだった。和田さんに相席を
させてもらい、娘さんに話をうかがえば、体調がわるいというので
病院へ連れて行ったら、あっという間に容体が急変して逝って
しまったという。
まだ七十二歳、いつもにこにこと、昼からの酔客を迎えてくださった。
店に女将さんの遺影が飾ってあった。御家族を見守っていてくだ
さい。手を合わせて、和田龍を献杯させていただいた。
献杯の遺影の笑顔春浅し。
美味しい水割りを。
2025年03月14日
へこりと at 09:30
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弥生 3
一年半ほど前からウォーターサーバーを使っている。
その頃、自宅と仕事場のトイレを新調した。世話になった
水道会社がウォーターサーバーの取り扱いをしていて、すこし
お得に設置が出来たのだった。
暮らしている善光寺門前界隈の水道水は、北にそびえる飯綱山
を水源としており、充分に美味しい。それでも飲み比べると、
ウォーターサーバーの水には水道水よりも柔らかさが感じられる
のだった。
水が良いと何よりうれしいのは、ウイスキーの水割りが
美味しく飲めることだった。ウイスキーといえば、以前は
マッカランやらグレンリベットやら山崎やら白州やら、
高級銘柄を飲んでいた。ところがそれらの銘柄が相次いで
品薄になり、手に入らなくなってから、コンビニやスーパーで
気楽に買えるトリスやブラックニッカばかりを買うようになった。
歳を重ねて、嗜好品にも欲がなくなってきたのだった。
利いてみれば、安いからとバカにしたものでもなく、なかなか
旨い。この手の安い銘柄だって、サントリーやニッカの
ブレンダーさんが味を検分してるのだから、さもありなんなこと
だった。
ウォーターサーバーを使うようになってから、ウイスキーの水割り
を飲む機会が格段に増えたことだった。
昨年の秋、いつものように自宅で晩酌をしていたら電話が鳴った。
出てみたら、長野市にあるウォーターサーバーを扱う会社の
女性からだった。
安全でおいしい水を提供しています。良かったら使ってみませんか
との勧誘だった。それからしばらくしたら、その女性から封筒が
届いた。開いて見たら、扱っている水の事細かな成分と
安全性についての説明資料が入っていた。価格を比べてみたら、
現在使っているウォーターサーバーよりもいくらか安い。翌日、
今使っている水を使い切ったら、契約したい旨を伝えた。
これまで使っていたウォーターサーバーに、これといって不満は
なかった。それを代えようと思ったのは、価格よりも電話をかけて
きた女性の話し方が、とても良い印象だったからだった。
昔から、電話の応対には、そのかたの人柄が出ると思っている。
人柄の良し悪しは電話の声に出ると思って、これまで外れたことが
ない。後日、気持ちよく契約をさせていただいたのだった。
春夕べ水割りいつも濃いめです。

一年半ほど前からウォーターサーバーを使っている。
その頃、自宅と仕事場のトイレを新調した。世話になった
水道会社がウォーターサーバーの取り扱いをしていて、すこし
お得に設置が出来たのだった。
暮らしている善光寺門前界隈の水道水は、北にそびえる飯綱山
を水源としており、充分に美味しい。それでも飲み比べると、
ウォーターサーバーの水には水道水よりも柔らかさが感じられる
のだった。
水が良いと何よりうれしいのは、ウイスキーの水割りが
美味しく飲めることだった。ウイスキーといえば、以前は
マッカランやらグレンリベットやら山崎やら白州やら、
高級銘柄を飲んでいた。ところがそれらの銘柄が相次いで
品薄になり、手に入らなくなってから、コンビニやスーパーで
気楽に買えるトリスやブラックニッカばかりを買うようになった。
歳を重ねて、嗜好品にも欲がなくなってきたのだった。
利いてみれば、安いからとバカにしたものでもなく、なかなか
旨い。この手の安い銘柄だって、サントリーやニッカの
ブレンダーさんが味を検分してるのだから、さもありなんなこと
だった。
ウォーターサーバーを使うようになってから、ウイスキーの水割り
を飲む機会が格段に増えたことだった。
昨年の秋、いつものように自宅で晩酌をしていたら電話が鳴った。
出てみたら、長野市にあるウォーターサーバーを扱う会社の
女性からだった。
安全でおいしい水を提供しています。良かったら使ってみませんか
との勧誘だった。それからしばらくしたら、その女性から封筒が
届いた。開いて見たら、扱っている水の事細かな成分と
安全性についての説明資料が入っていた。価格を比べてみたら、
現在使っているウォーターサーバーよりもいくらか安い。翌日、
今使っている水を使い切ったら、契約したい旨を伝えた。
これまで使っていたウォーターサーバーに、これといって不満は
なかった。それを代えようと思ったのは、価格よりも電話をかけて
きた女性の話し方が、とても良い印象だったからだった。
昔から、電話の応対には、そのかたの人柄が出ると思っている。
人柄の良し悪しは電話の声に出ると思って、これまで外れたことが
ない。後日、気持ちよく契約をさせていただいたのだった。
春夕べ水割りいつも濃いめです。
ロートレック展へ。
2025年03月07日
へこりと at 09:26
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弥生 2
松本へ出かけた。
市立美術館でフランスの画家、ロートレックの
個展が開かれているのだった。子供の頃から絵画鑑賞が好き
だった。高校を卒業して、横浜に四年間暮らしていたことが
ある。本を買いに有隣堂へ行ったときに、たまたま目にした
フランスの画家、コローの画集を手に取ったのがきっかけ
だった。透明感のある作風に惹かれ、そこからいろんな画家に
興味が向くようになった。都会がありがたいのは、頻繁に
あちこちの美術館やデパートの会場で、いろんなかたの作品を
目にする機会があることだった。
企画展が開くたびに足を運んでいた。
コローにユトリロにターナーにロートレックが特に気に入りだった。
長野に戻って来てからも、二十代の頃は、ときどき東京の美術館に
足を運んでいたものの、仕事が忙しくなったり、家庭を持ったり
家庭を捨てたり、あれこれ身の回りのことに気を取られ、遠くの
美術館に行く気も失せていた。
それでも近年ありがたいのは、長野に上田に松本と、近場の
美術館でもたびたび好い企画展を開いてくれることだった。
それぞれの美術館にセンスの良い学芸員さんがいて、楽しませて
くれるのだった。
松本に着いた夕方、東横インに向かっていくと、松本パルコの
入り口に、「40年間ありがとうございました」の幕があった。
長年、若者のファッションを引っ張ってきた松本パルコと、
老舗のデパート、井上の相次いでの閉店が決まり、松本は寂しい
ことになっている。
チェックインを済ませたら四柱神社に行って、松本の町が平和で
ありますようにお参りをした。その足ですぐ近くの居酒屋、「深酒」
におじゃました。この店に来るのは四回目。どうやら女将さんや
旦那さんに顔を覚えていただいたようで、カウンター越しにはじめて
世間話を交わしていただいた。ヒラメの昆布締めと出汁の優しい
おでんで、県内外、あちこちの銘酒を味わったのだった。
翌朝、市立美術館へ行けば、いつものように入り口の、草間彌生の
派手なオブジェが迎えてくれる。
ロートレック展では、パリの町に生きた歌手や芸人に娼婦を
描いた作品がずらっと並んでいた。以前拝見したのはおそらく
四十年ほど前のこと。場所は高島屋デパートの会場だったっけ。
再度覚えのある作品に触れることが出来て、嬉しいことだった。
春寒し派手なオブジェの美術館。
懐かしい味に。
2025年03月04日
へこりと at 09:58
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弥生 1
休日になると、たいてい馴染みの蕎麦屋で昼酒を
酌んでいる。先日、馴染みのおでん屋で初めてお会いした
女性と、善光寺門前、仲見世の蕎麦屋の丸清で
酌み交わしたのだった。丸清の御主人の好意の小鉢もの
三品で銘酒、大信州の杯を重ね、もりで締めた。
三十歳も年下の娘のようなかたで、よくもまあ、こんな
しょぼくれたじじいの酒に付き合ってくれたことと、まことに
ありがたいことだった。丸清との付き合いは子供のときからで
ずいぶんと長い。
子供の頃、学校から帰るとひとりで留守番をしていた。
父は仕事が終わると、毎晩のように馴染みの飲み屋で遅くまで
酔っ払っていたし、美容師をしていた母も仕事が忙しく、仕事の
後に、お弟子さんや友だちと食事に出かけることがたびたびあった。
母が作り置きしておいた夕飯をひとりで食べていたのだった。
夕飯の作り置きをする時間がないときは、
今夜は丸清のかつ丼を頼んでおくからねと言われ、夕方になると、
出前が届くのだった。それが実に楽しみで、
毎晩かつ丼でもいいのになあと思ったものだった。
秘伝のたれがかかったソースかつ丼で、ちょこんと目玉焼きが乗って
いる。子供の頃の思い出の味といえば、すぐに思い出す美味しさ
だった。大人になって蕎麦屋酒に味を占めるようになり、
丸清にも通っている。ところが、子供の頃よりも
食が細くなって、かつ丼を食べようものなら、腹がいっぱいになり
すぎて苦しくなる有様だった。食べたいときはごはん抜きの
おつまみロースかつを頼んで、ちびちび酒を酌んでいる。
もうひとつ懐かしい味があって、鶏のから揚げだった。ひとりで
留守番をしている夕方、ときどき向かいのお宅の、上野さんの
おばちゃんが差し入れてくれたのだった。それまで唐揚げという
ものを食べたことがなかった。
初めて食べたときにその美味しさに感動したものだった。
馴染みの飲み屋に行ったときに、品書きに唐揚げを見つけると
そそられるものの、やっぱり腹が苦しくなって、他のつまみが
頼めない。いつも諦めているのだった。思い出していたら
たまには懐かしい味に触れてみたくなってきた。
かつ丼のご飯の量は少なめに、唐揚げも量を減らしてもらうことと
する。
かつ丼やごはん少な目二月尽。

休日になると、たいてい馴染みの蕎麦屋で昼酒を
酌んでいる。先日、馴染みのおでん屋で初めてお会いした
女性と、善光寺門前、仲見世の蕎麦屋の丸清で
酌み交わしたのだった。丸清の御主人の好意の小鉢もの
三品で銘酒、大信州の杯を重ね、もりで締めた。
三十歳も年下の娘のようなかたで、よくもまあ、こんな
しょぼくれたじじいの酒に付き合ってくれたことと、まことに
ありがたいことだった。丸清との付き合いは子供のときからで
ずいぶんと長い。
子供の頃、学校から帰るとひとりで留守番をしていた。
父は仕事が終わると、毎晩のように馴染みの飲み屋で遅くまで
酔っ払っていたし、美容師をしていた母も仕事が忙しく、仕事の
後に、お弟子さんや友だちと食事に出かけることがたびたびあった。
母が作り置きしておいた夕飯をひとりで食べていたのだった。
夕飯の作り置きをする時間がないときは、
今夜は丸清のかつ丼を頼んでおくからねと言われ、夕方になると、
出前が届くのだった。それが実に楽しみで、
毎晩かつ丼でもいいのになあと思ったものだった。
秘伝のたれがかかったソースかつ丼で、ちょこんと目玉焼きが乗って
いる。子供の頃の思い出の味といえば、すぐに思い出す美味しさ
だった。大人になって蕎麦屋酒に味を占めるようになり、
丸清にも通っている。ところが、子供の頃よりも
食が細くなって、かつ丼を食べようものなら、腹がいっぱいになり
すぎて苦しくなる有様だった。食べたいときはごはん抜きの
おつまみロースかつを頼んで、ちびちび酒を酌んでいる。
もうひとつ懐かしい味があって、鶏のから揚げだった。ひとりで
留守番をしている夕方、ときどき向かいのお宅の、上野さんの
おばちゃんが差し入れてくれたのだった。それまで唐揚げという
ものを食べたことがなかった。
初めて食べたときにその美味しさに感動したものだった。
馴染みの飲み屋に行ったときに、品書きに唐揚げを見つけると
そそられるものの、やっぱり腹が苦しくなって、他のつまみが
頼めない。いつも諦めているのだった。思い出していたら
たまには懐かしい味に触れてみたくなってきた。
かつ丼のご飯の量は少なめに、唐揚げも量を減らしてもらうことと
する。
かつ丼やごはん少な目二月尽。
お見送りをさせていただき。
2025年02月28日
へこりと at 08:49
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如月 7
小さな城下町、上田が好きで四年前におんぼろのマンションを
別宅として手に入れた。月に二度か三度訪れているのに、
今年になってまだ一度しか足を運んでいないのだった。
持病の腰痛がひどくて外出する気が萎えているのと、
いつも暮らしているわけではないので、冬になると部屋が
冷え込んでいて、寒くて仕方がないのだった。近年、
上田の市街地に高層マンションが増えた。東京まで一時間の
通勤圏内だし、都内でマンションを買うよりもずっと安い。
けっこう都会のかたも購入しているとうかがえる。
そういう資金のない貧乏な身は、隙間風の入って来るおんぼろ
マンションで震えているのだった。
上田を訪れるきっかけになったのは、地元のSNSを通じて、
上田に暮らす女性と飲み友だちになったことだった。
酒に強く、ぐいぐいテンポ良く呑むかたで、
明るい笑顔を眺めながらのひとときに楽しく酔って、
たいていこちらが先につぶれてしまうのだった。
長野に生まれ育ったかたで、結婚して上田に暮らすようになり、
今は中学生の息子の世話を頑張っている。昼間は仕事、
夕方や休日は息子のサッカーの練習や試合の送り迎えと忙しい。
ここ最近は杯を交わす機会がめっきり減ってしまったけれど、
春が訪れるあたりにまた一献やりたいものだった。
寒い日が続いているけれど、春の城跡公園の桜並木を思い浮か
べれば、気持ちも温かくなることだった。
朝、仕事の準備を終えて新聞を広げたら、お悔やみ覧に目が
留まる。
その友だちのお父さんがお亡くなりになったのだった。
お母さんと一緒に友だちの名が喪主として載っていた。
明日の葬儀は残念ながら仕事が入っていてうかがえない。
夕方、お通夜の席におじゃましてお参りをさせて頂いた。
久しぶりに会った友だちは、思いのほか元気そうでほっとした。
これまた久しぶりに見かけた友だちの息子も、ずいぶんと背が
伸びていて、成長ぶりに驚いた。
御家族や御親族ばかりの席に部外者が混ぜてもらい、なんだか
申しわけがない気分で、ご住職の読経の席に着かせていただいた。
娘さんとお孫さんを見守っていてください。
お父さんに、
気持ちを込めて手を合わせたのだった。
見送りに通夜へと向かう春寒し。
酒粕賛々。
2025年02月25日
へこりと at 11:06
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如月 6
酒屋を営む友だちに酒粕を頂いた。
長野市は信州新町のお蔵さん、尾澤酒造場の銘酒、
十九の酒粕だった。もう旨いに決まっている。昔はどこの家庭でも
酒粕を漬物作りに使っていたと聞く。最近は粕漬けを作る人も
いなくなり、酒粕が余っていると、以前知り合いのお蔵さんに
聞いたことがある。
旨い酒粕は、そのまま炙って酒のつまみにしても好いし、寒い冬は
何と言っても鍋でしょうと、毎晩の鍋に溶かしている。
あれこれ具材をごちゃごちゃ入れるのは好きではないので、
大根の千切りと油揚げ、湯豆腐、白菜と油揚げ、豆腐と油揚げ、
豆腐とネギ、豆腐か油揚げに野菜を一品加えただけの簡単な鍋を
仕込んで、突っつきながら杯を重ねている。小ぶりの鍋に出汁と
味噌と具材を入れて、頂いた酒粕をちょいと多めに落とせば、
いつもの鍋より体が温まるのだった。ときどき豆乳を買ってきて、
鍋に使うときがある。酒粕が残っているうちに、久しぶりの
豆乳鍋を仕込みたいことだった。
かつて両親は、寒くなってくると酒粕を買ってきて、朝飯と夕飯の
味噌汁に入れていた。以前酒屋の友だちからもらった酒粕を、
半分おすそ分けしたことがある。
翌日母から電話がかかって来た。あんた、あの酒粕どこで手に入れ
たんだね。ふだんスーパーで買っている酒粕と全然違う。
味噌汁が格段に美味しくなったというのだった。
そりゃそうでしょ。宮城の新澤醸造の銘酒、愛宕の松の酒粕だもの。
えらい喜びようだったから、自宅にあった残りの半分も
届けてあげた。以来、酒粕をもらうたびに両親に届けるようになった。
味噌汁に入れる量なんてたかが知れている。寒さが緩んで
春の盛りを迎える頃まで味噌汁に使っていた。母が大病をしてから、
たびたび父が食事の支度をするようになった。いちど朝飯のときに、
味噌汁に酒粕を入れすぎちゃって、下戸だった母が酔ってしまったことが
あったっけ。
酒粕ひとつにも、ささやかな両親との思い出があり、気持ちも温まる
ことだった。
粕汁や父母思い出す熱さかな。
古い映画館で。
2025年02月21日
へこりと at 10:45
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如月 5
ずいぶん以前、ユーチューブを覗いていたら、
たまたま「水曜どうでしょう」という番組が引っかかった。
北海道のテレビ局の番組で、地元出身の大泉洋が、スーパーカブに
乗って全国をツーリングするという番組だった。ツーリングの最中、
いろんなアクシデントを乗り越える、大泉洋の明るくてひょうきんな
柄が好くて、以来、好きなタレントのひとりになっている。
上田市でロケを行った主演の映画、「青天の霹靂」はしみじみと
好い作品だった。
海野町商店街の中華食堂、「檸檬」の焼きそばが気に入りで、今でも
上田に来ると足を運んでいるという。
「室町無頼」を観に行ったのだった。
大泉洋演じる蓮田兵衛が仲間と共に民衆を苦しめる室町幕府に
戦いを挑む物語だった。
上映されたのは長野駅前の映画館、千石劇場で、古い佇まいに
趣きがある。ところがこの界隈の再開発でここに長野市でいちばん
背の高い複合施設が建つことになった。建物の老朽化や道幅の
狭さなど、時代にそぐわない事柄があるものの、見慣れた景色が
また一つなくなるのは寂しいことだった。ファミリーマートで
唐揚げと缶酎ハイを買って館内に入れば、予想通りがらがらで、
お客は自身も含めて三人だけだった。唐揚げの油の匂いに気を
遣わずに済んで、いざ「室町無頼」を観たら、
実に楽しい作品だった。弱きを助け強きを挫く、迫力ある太刀裁き
がテンポよく繰り広げられ、大泉洋の活舌の好い演技を楽しませて
もらったのだった。
映画館を出て、この日の昼酒に駅前の富寿しの暖簾をくぐった。
若い大将の、活きの好いいらっしゃいませに迎えられカウンターに
落ちついた。イカの握りと甘海老の握りで黒ラベルを飲んでいれば、
今日はマグロがおすすめですと声をかけてくれる。それではと、
地酒の、今錦の生酒一本注文して、赤身と中トロと大トロの握りを
頂戴した。
カニ味噌でもう一本お銚子を追加して、好い感じに酔ったのだった。
店を出て通りを上がっていけば、寒さ真っ盛りというのに、観光客の、
それも外人さんの姿が多い。
寒さが緩めば、より一層の賑わいが見込まれる。この冬を淡々とした
気分で過ごしているのだった。
春立つや寿司屋の旦那眉細し。
四十九日の法要を。
2025年02月18日
へこりと at 13:24
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如月 4
二月になって寒さ厳しい日が続いている。
持病の腰痛も相まって、外出する気にもならず、
いつものように、仕事を終えた夕方にふらふら
飲み屋に行く気も起きないのだった。
この冬は雪の降る日が少なくて、ありがたいと
思っていたら、二月最初の週末に強い寒波がやってきて、
長野市街地もこの冬一番の雪降りとなった。
そのさなか、年末に亡くなった母の四十九日の法要を
行ったのだった。函館に暮らす兄夫婦と、札幌に暮らす
姪っ子と、東京に暮らす甥っ子夫婦、ひっそりと
身内だけで集まって執り行った。大雪のおかげで
新幹線のダイヤが乱れ、みんなやっとの思いで長野に
たどり着いた。
姪っ子に会うのは、成人式を迎えるとき以来だったから、
九年ぶりのことだった。その間に結婚をして、子供を三人
産んで、お母さんになった。このたびは小学校一年生の
長男も連れてきた。
守る身を授かったその顔つきには、母親の強さが垣間見られる
ようになり、たくましくなったのおと感心した。
翌日、位牌と遺影とお骨を持って、菩提寺の寛慶寺の門をくぐった。
本堂で御住職にお経をあげてもらい、お墓に行って、納骨をした。
母がいなくなれば、空き家になっている実家もいずれ
処分をすることになる。実家に行ってみんなで記念撮影をした。
夕方、法要の締めのお斎に「割烹 きたざわ」へうかがった。
この店の御主人は、以前小布施町に在る料理屋、「鈴花」の
板長をしていた。生前、母がこのかたの料理が好きで、よく
「鈴花」へ足を運んでいたのだった。御主人が独立して
長野市街地にご自身の店を出してから、二度ほど母を連れてきた
ことがある。こんな近くに来てくれて嬉しいと喜んでいたのに、
ほどなくコロナ禍になってしまった。入居していた施設が
外出禁止になってしまい、以来、母を連れてこれなかったのが、
悔やまれることだった。
翌日、帰るみんなを駅で見送って、夕方ひと風呂浴びてから、
兄の土産の、北海道の地酒の国稀で晩酌をした。
これで一周忌まで一区切り。ほっと一息ついたのだった。
冬夕べ四十九日の献杯を。
紙パックの酒を。
2025年02月14日
へこりと at 09:24
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如月 3
日本酒を頂いた。紙パックの月桂冠の「月」で、
スーパーやコンビニでよく目にする銘柄だった。
社会人になった頃、会社の先輩や友だちと飲み屋に行くと、
品書きに載っているのは、月桂冠に松竹梅に白鶴に菊正宗に
大関などの、大手メーカーの酒ばかりだった。
翌朝は決まって二日酔いに悩まされたのだった。
あれは何の銘柄だったっけ。ものすごい二日酔いで寝坊をして、
会社に向かって、全速で自転車で通りを下って行ったら、ふいに
こみ上げてきて、走りながら吐いてしまったのだった。風圧で
汚物が顔や洋服に張り付いて、こりゃだめだ。全速で自宅へ引き
返し、結局会社を休んでしまった。それから日本酒には手を出さず、
甲類の焼酎ばかり飲んでいた。
再び飲むようになったのは、越後の端麗辛口の銘柄をきっかけに、
地方のちいさなお蔵さんの、旨い地酒が出回るようになってから
だった。
紙パックの酒を手にするのは、八年前に父が亡くなった
ときに、買い置きの酒を引き取って以来だった。
生前、その二リットル八百円の酒を毎晩五合、旨そうに飲んで
いた。父には申し訳ないが、この味を五合飲めるなんてたいした
ものだなあと感心したものだった。そんな味だった。
その日の晩、「月」を利いてみた。
昨年の夏、別の知人から月桂冠の一升瓶を頂いた。
利いてみたら、思いのほか旨くて驚いたのだった。
「月」も口当たりが柔らかく、ぬる燗にしたら酸の旨味が
広がった。
最近仕事の景気がわるい。いよいよ行き詰ったら、安い
紙パックの酒でもいいかなあ。ふと頭をよぎってしまった。
ところが、月桂冠のホームページを覗いてみたら、地酒の
ちいさなお蔵さんと比べても、それほど安くない。
かつて日本酒が売れた時代、大手メーカーといえば質より
量の造りだった。売れなくなった昨今、手間と資本をかけて
質も量もに変わっていたのだった。
外出の折りは、いつもカメラをぶら下げて写真を撮って
いる。敬愛する大門美奈さんという写真家がいる。
お酒が好きなかたで、SNSを覗くと、写真やカメラのネタと
おなじくらい、酒や飲み屋のネタが多くてまことに楽しい。
名を馳せた地酒を数多飲んでいるのに、お薦めは大関の上撰と
言っている。ありふれた大手の銘柄を選んだわけを、またお会い
できる機会があれば尋ねてみたいことだった。
スーパーで大関を見かけたら、試しに買ってみようと思う。
燗酒や一分ちょっとレンチンで。
母の帽子を。
2025年02月07日
へこりと at 11:05
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如月 2
寒くなって上着を一枚余計に着ている。
それでも朝の冷え込みに耐えられず、さらにもう一枚
着こんでしまうときがある。
仕事の際に着ているのは、黒のTシャツやスウェットに
パンツと決めている。仕事柄いくつか薬品を使うので、
衣服に付いても汚れが目立たないからだった。
飲み屋に行ったり蕎麦屋に行ったり、私用のときは、黒や
青や白、柔らかな生地の服を着ている。
その日の気分で服を選んで、馴染みの店を目指して行く。
還暦を過ぎて、もともとだらしのない顔つきに、ますます
拍車がかかっている。
せめて、服装だけは見苦しくないようにしなければいけないの
だった。
ときどき、出向いた先で顔見知りのかたに、おしゃれですねと
声をかけていただくことがある。
嬉しくなってついつい杯が進みすぎ、結局だらしないヨッパに
なっているのだった。
先日実家の片づけをしていたら、押し入れから、母のバッグが
入った箱と、帽子が入った箱が出てきた。バッグは未使用の
物が四点有った。年老いてから、外出といえば医者通いだけで、
保険証と診察券を入れっぱなしの赤いバッグだけ使っていたっけ。
四点のうち、小ぶりの革のリュックは、散歩のときに
カメラを収めるのにちょうど好い。使わせてもらうことにした。
残りのバッグは母の知人に、形見分けとしてもらっていただく
ことにする。
帽子は六点有った。黒いのが三点に、薄紫と茶色のが一点づつ。
どれも男性が被っても違和感のないデザインで、使わせてもらう
ことにした。残ったもう一点の帽子は、
黒色の地に、赤にオレンジに緑に白に紫の柄が施された物だった。
遊びに行くときに、好んで被っていたのを覚えている。
帽子の内側のタグに「Kiyoko Koga」とあったので、検索してみたら、
すごいデザイナーのかたの作品だった。
高価な衣類や小物を、ユニクロのTシャツを買うように、ほいほい
買っていたなあ。人目を引くような服装を、よく着こなしていたっけ。
母の顔が浮かんだのだった。
日脚伸ぶ母の形見の帽子かな。
いつまでも痛くて。
2025年02月04日
へこりと at 10:41
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如月 1
すでに花粉が舞っている。
毎年春になると手ひどくやられている。くしゃみが出て
鼻水が止まらず目がかゆくなり、ティッシュと
鼻炎薬と洗眼薬が欠かせない。鼻水をすすりながら
赤い目をして仕事をしているのは、なんとも情けのない
ことだった。毎年、梅が咲き始める頃から、桜の散る頃まで
続いていたのに、一昨年あたりから、まだ冬最中の寒い頃
から症状が出るようになった。
今年もまだ一月が明けぬうちから、悩まされているの
だった。これまでいろいろ、花粉症の予防になるという
お茶やらヨーグルトやらサプリメントを飲んでみたけれど、
効果の出たためしがない。きっと毎晩のアルコールが妨げに
なっていると見当がつく。
酒をやめるわけにはいかないから、あきらめて、症状が
出始めたら、速やかに薬に頼っている。先だってやって
しまったぎっくり腰の痛みがようやく薄らいできて、
ほっとしていた。いちばんつらかったのは、しばらく椅子に
座っていた後に立ち上がると、強烈な痛みが続くこと
だった。椅子から腰を上げたらしばらく歩くことができず、
壁につかまって苦悶の表情をしていたら、
たまたま訪ねてきた知人に、大丈夫ですかあ、救急車
呼びますかと心配をされたこともあった。これから先、
歳を重ねるにつれ、もっとあちこちガタが出てくる。
無理をして調子を崩して、親しいかたに心配と迷惑をかけぬ
ようにしなくてはいけない。
腰をかばって歩いていたら、今度は左足の脛に痛みが出る
ようになってしまった。それが和らいできた先日、朝起床
して、顔を洗おうとしたら、ピリッと腰に痛みが走った。
・・またですか・・。洗面台につかまって、痛みが治まる
のを待った。なんとか仕事を午前で終いにして、午後は自室で
横になり、揉んだりさすったりを繰り返していた。この日の
夕方は、久しぶりの友だちと一献交わす約束をしていた。
旨い煮込みで旨いワインを飲むはずだったのに、とても無理。
ドタキャンですみません、なんとも腰の調子がと。お詫びの
電話を入れたのだった。
ぎっくり腰は癖になると聞いていたけれど、こんなに
早く再発しないでくださいよ。とほほの気分で一月が
終わったのだった。
腰痛に煮込み果たせぬ睦月かな。
上田でひととき。
2025年01月31日
へこりと at 11:31
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睦月 6
休日、新幹線に乗って,缶酎ハイを飲みながら上田へ
出かけた。日々暮らしている長野市の善光寺界隈は、
年が明けて日が経つというのに、今だに観光客が
わさわさと来ていて賑やかしい。こうして小さな城下町に
降り立つと、穏やかな静けさにほっとするのだった。
上田市立美術館で開催している、「ハッケン上田の仏像展」
を観に行った。
上田の町を歩いていると、先々にりっぱな古刹が多い。
遭遇すると、宗派を問わずおじゃまして、上田の町が平和で
ありますよう祈っている。
そんなお寺の仏像をお披露目してくれる企画展なのだった。
ひとつひとつ、昔の仏像を観ていると、静かな佇まいに
気持ちが落ち着いた。お寺を訪ねても、普段はお目にかかれ
ないから、貴重な企画に感謝をした。
美術館を出て向かいの上田アリオの中に入っていくと、長年
営業していたスーパーのイトーヨーカドーが閉店していた。
いつもお客で賑わっていたのに、来るたびに見慣れた景色が
なくなって、寂しいことだった。
そのまま駅前の通りを上がって、この日のランチはフレンチの
「ル・カドル」と決めていた。
広い店内に、四人掛けのテーブルが三つに、小さなカウンター。
ゆったりとした空間が好い。
御主人は、たまたま上田に来たところ、町の風情が気に入って、
移住して店を始めたかただった。寡黙な御主人で、この店に
通いだして八年になるのに、御主人と言葉を交わしたのは、
おそらく十秒にも満たない。カウンターから厨房を眺めていると、
丁寧に料理を作る姿だけで酒が進むのだった。
奥さんは北海道の厚岸で生まれ育ったかたで、この日は、
厚岸蒸留所のウイスキーを利きながら、スズキのポワレを堪能
した。年末から年明けにかけて、私用で気持ちの落ち着かない
日が続いていた。
こうして美味しい料理と酒にゆっくり満たされると、元気が出て
くる。贅沢だけど大事な時間。つくづく感じたのだった。
酔い好いで御主人夫婦にお礼を述べて店を出て、ちょいと先の
呉服店の「ゆたかや」におじゃました。
二年前に浴衣を作って頂いた。暗めの落ち着いた柄の浴衣で、
もうひとつ、逆に明るめの柄の浴衣も欲しいなあと思っていたの
だった。浴衣の反物が入荷したら連絡をください。お願いして店を
出た。
冬最中、早々に夏の楽しみを作ったことだった。
潮香る厚岸の酒冬うらら。
CMどおりにいかなくて。
2025年01月28日
へこりと at 08:34
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睦月 5
六歳離れた兄は、三歳の頃からピアノを弾いている。
中学生のときは合唱部で伴奏をして、仲間の歌声を
引き出していた。高校生のときは仲間とバンドを組んで、
あちこちのコンテストに出場して、井上陽水やら吉田拓郎
やらを歌っていた。音楽に夢中で勉強もせず、やさぐれていた
毎日で、酒とたばこと女に手を出して、ずいぶんと親に心配と
迷惑をかけていた。東京の音楽大学に進学したものの、ここでも
学業に不熱心で中退してしまい、縁あって知り合ったかたに誘わ
れて函館に移住して、現在は、ピアノ教室をやったり、函館で
いちばん高級なクラブで弾いている。コロナ禍になり、
ピアノ教室の生徒もクラブのお客も来なくなり、大変な思いを
していたのだった。そんな兄が使っていたアップライトピアノが
実家に有る。テレビを観ていると、ピアノ高く買い取りますの
CMをよく目にする。実家もいずれ処分することだし、小遣い稼ぎに
なればと、売ることにしたのだった。買い取り会社に予約を入れた
当日、訪ねてきた業者にピアノを見てもらったら、これは買取でき
ないと、申し訳なさそうに言われた。
兄のピアノは犬とラッパのマークのビクターの製品で、六十年以上の
月日が経っている。ヤマハかカワイじゃないと価値がなく、
こんなに古くては修理代に莫大な費用がかかると言われてしまった。
おまけにピアノのような複雑な代物は、廃棄物業者も引き取ってくれ
ないとのことで、小遣い稼ぎどころか、逆にお金を払って処分をお願い
する羽目になってしまった。
日を置いた別の日、実家にたくさん残された、母の着物を売ることに
した。一枚一枚たとう紙を開いてみれば、素人目にも高級なものばかり
とわかる。買い取り業者に着物を見てもらったら、
買い取れるのは高価な訪問着や帯などで、普段着の紬などは買い取れ
ないと言われてしまった。数ある中から微々たる金額で売れたのはほんの
一部だけだった。
お茶やお花をたしなみ、着物を着る知人もいるけれど、着物は着るかたの
背丈や体形に合わせて作るから、小柄だった母の着物を譲ることもでき
ない。CMどおりにいかんではないか。気分がへこんだことだった。
底冷えや音色空しきピアノかな。

冬の痛みに。
2025年01月24日
へこりと at 12:34
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睦月 4
年明けて寒い日が続いている。朝の気温が氷点下の日が続き、
目覚めて布団から這い出るのが、まことに難儀なことだった。
それでもありがたいのは、長野市街地は今のところ大雪に
見舞われていないことだった。
降ってもうっすらと道路に積もる程度で、天気が回復すれば
すぐに融けてくれるから雪かきの手間がないのだった。
夜中から早朝にさんさんと雪が降ると、自宅の向かいのお宅の
奥さんと隣のお宅の奥さんは、五時前からせっせと雪かきを
始める。がりがりと雪かきの音で目が覚めて、慌てて二日酔いの
寝ぼけた頭で外に出れば、すっかり目の前の路地の雪が両脇に
片付けられている。お二人とも高齢だから、こちらが率先して
しなきゃいけないのにと、そのたびに恐縮していたのだった。
この頃は雪かきの音が聞こえても、すっかり慣れて、二度寝を
決め込んでいる有様だった。
冬場につらいのは、体が不調をきたすことだった。生まれつき、
左の膝の骨の裏側にかすかなひびがある。
中学生のときにバスケをやっていて、高校では陸上をやっていた。
練習に明け暮れて疲れがたまると痛みが出て医者通いをしていた。
この歳になって激しい運動をしているわけでもないのに、寒さ厳しい
折りはじんじんと痛くなるのだった。
三十年余り前に交通事故にあって、あごの骨を骨折してチタンの
プレートで繋いである。寒くなるとそこにも痛みが出て、口を動かす
のがつらい。持病の坐骨神経痛も冬場になると痛みが増す。
仕事を終えた夕方、熱い湯にゆっくり浸かり温めると痛みが幾分和らぐ
ものの、朝になればもとの痛みが戻っている。
先日、布団をたたもうとかがんだら、腰の左側にずきっと
痛みが走った。あまりの痛さにそのまま動けなくなって再び布団に
突っ伏した。持病の坐骨神経痛の痛さなどかわいいものと思えるほどで、
そんな日に限って仕事の予定が入っているのだった。
痛みをこらえて仕事をしていたら、脂汗が出てくる。なんとかこなして
友だちの営む整骨院へ行こうと思ったものの、とてもじゃないが痛すぎて
動けない。翌日仕事を休んで翌々日に伺ったら、あ~、ぎっくり腰だねえ
と言われた。
治療をしてもらいながら、しばらくはおとなしくしててくださいと、
くぎを刺されてしまった。
馴染みの飲み屋へ行くことも出来ず、しょんぼりと家飲みの日が続くの
だった。
冬の雨腰の痛みはまだ続き。
1月21日の記事
2025年01月21日
へこりと at 13:34
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睦月 3
長野から新幹線で十五分、上田の町が好きでたびたび
訪れている。以前は駅前の東横インに泊まっていたものの、
上田に暮らす友だちを通じて、安いマンションを買うことが
できた。築四十年のおんぼろだけど、時間を気にせず落ちつける
別宅が出来たのは嬉しいことだった。
上田へ来てもこれと言って何かするわけでもなく、あてもなく
町なかをぶらぶらして、城跡公園の桜を眺めたり欅並木を眺めたり、
ときどき上田電鉄の別所線に揺られて三十分、別所温泉まで足を
延ばして、柔らかな湯に癒されることもある。
通い始めて十年余り。馴染みの蕎麦屋に寿司屋に飲み屋に洋食屋も
出来て、昼酒夜酒を楽しんでいる。仕事を引退したら、身の回りの
最小限の物だけ持って上田で暮らそうか、そんなことも考えている。
そう思えるほど、まことに風情の穏やかな好い町なのだった。
年明け初めての上田詣でに出かけた。
駅を出たその足で甲田理髪店に立ち寄って、ぼさぼさの髪をさっぱり
切ってもらう。別宅に荷物を置いて、住宅街の通りを上がって行って、
飲み屋の「かぎや」の暖簾をくぐる。ご両親と息子夫婦で営むこの店は、
温かな客あしらいが好く、いつも地元の客で賑わっている。
今年もよろしくお願いしますと、手土産の菓子を渡してカウンターに
落ちついた。いいちこのロックをゆるゆるとやっていたら、御厚意で
地酒の亀齢の純米を出してくれた。新年最初の上田飲みに気持ちよく
酔ったのだった。
翌朝、東宝シネマズ上田へ出向いて、キムタク主演の「グランメゾン
パリ」を観た。六年前にTBSの日曜劇場で、「グランメゾン東京」
というフレンチレストランのシェフたちを描いたドラマを放送して
いた。
今回は同じ仲間たちで舞台をパリに移しての作品だった。
臨場感いっぱいの、キムタク演じる尾花夏樹とその仲間たちが料理を
作る場面に、なんともそそられてしまった。
映画を観終えたら、上田のフレンチレストラン、「ル・カドル」に
行きたくなった。
寡黙な料理人の御主人と、ソムリエのきれいな奥さんが営むこの店は、
料理も接客も佇まいも好く、ときどきおじゃまをしているのだった。
ずいぶんご無沙汰していたなあと思い出し、来週ランチに伺います。
早速予約を入れたことだった。
冴ゆる夜の馴染みの店の地酒かな。
巳の年を迎えて。
2025年01月17日
へこりと at 12:04
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睦月 2
巳の年を迎えた。年明けの善光寺は、恐ろしいくらいの
参拝客で埋め尽くされた。正月に賑わうのは恒例だけど、
今年は人出がすさまじく、年明けて一週間を過ぎても、
今までよりも多くの参拝客が来ているのだった。
年末に母が亡くなって、通夜や葬儀でばたばたとしていた。
駆けつけてきた兄夫婦と甥っ子夫婦が大晦日の日に
それぞれ帰っていって、ひとりで茶の間の母の遺影を眺めて
いたら、なんだか気力が抜けてしまった。
紅白歌合戦を観ながら白菜と大根の鍋で今年最後の酒を
酌んでいたら、いつの間にかつぶれて、目が覚めたときには
すでに新年になっていた。忌中が明けるまでは神社と寺にも
お参りをしてはいけない。この三が日も自宅でおとなしく。
新しいしめ縄のない台所の神棚が、なんだか間が抜けたよう
だった。
初湯に入り、母の遺影に線香をあげて、全国実業団駅伝を
観ながら油揚げと大根の鍋で新年最初の酒を酌んだ。昨夜の
酒がまだ抜けていなかったのか、旭化成がゴールテープを切る
前につぶれた。
翌朝、箱根駅伝を観ながら豆腐とネギの鍋で、エビスの栓を
抜く。箱根駅伝はサッポロがスポンサーだから、サッポロを
飲まないといけないのだった。二日と三日、白熱したレースを
観ながらよくよく飲んだことだった。
新年最初の定休日、実家に向かった。車庫に山積みになった
不用品を処分してもらうために、産廃業者に見積もりに来て
もらったのだった。この量だから安くはないだろうとは思って
いたものの、結構な金額を言われびびった。その足で
葬儀屋への支払いに銀行へ行った。新年早々多額の出費に、
新年早々暮らしへの不安がつのってしまった。
帰り道、善光寺仲見世の仏壇屋に寄って、母の位牌の作成を
お願いした。今日一日の予定を終えてぶらぶら通りを下り、
今年最初の蕎麦屋の昼酒に、「かんだた」の暖簾をくぐった。
御主人と女将さんと新年のあいさつを交わし、とり皮の旨煮で
ビールを一本に燗酒を二本。ゆるゆると酌んでいれば、次から
次へとお客が入って来る。外人のお客も多く、酌みながら
横目で眺めれば、どの外人さんも箸の使い方が上手で感心した。
会計のときに、美味しかったですと言われるお客が続いて、
馴染みの店の味が褒められるのは、こちらも嬉しいことだった。
どんな一年になるのか。先の不安は尽きないけれど、ちびちび
酒を酌みながら、淡々と過ごしていきたいものだった。
異人客多し蕎麦屋の熱燗を。
母を見送って。
2025年01月10日
へこりと at 08:55
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睦月 1
年末に母が亡くなった。入居している介護施設で
コロナにかかってしまったのだった。肺炎を発症して、
救急車で大きな病院に運ばれた。検査をしたところ、
肺と心臓がだいぶ弱っている。早ければ今週いっぱい
もたないでしょうと、担当のお医者に言われてしまった。
翌日には意識を失って、酸素吸入と点滴で持ちこたえていた
ものの、一週間目に容体が悪化して逝ってしまった。
函館に暮らす兄夫婦と東京に暮らす甥っ子夫婦、母と
親しかったかたがたに連絡をして、通夜と告別式を執り行った。
告別式が済んでも気の毒なのは兄夫婦で、年末の帰省ラッシュに
引っかかり、函館行きの新幹線も飛行機も切符が取れず、
大晦日まで足止めを食ってしまったのだった。
その間、甥っ子夫婦共々、空き家になっている実家の片づけを
してくれた。母が施設に入ってから、ときどき不用品を片付けて
いたものの、いかんせん物が多すぎて全然片付かない。
昔の人はなんでこう物をためたがるのかなあ。実家に行くたびに
ため息をついていた。足止めを食らった三日間で、ずいぶんな片づけを
してくれて、助かったことだった。
二十二歳のときに函館に移住をして四十年余り、両親との縁が薄くなった。八年前に父が他界したときに帰って来たのが十五年ぶりのことで、
この度の帰省もそれ以来のことだった。年老いた両親の面倒はすっかり
こちら任せで、実家の片づけは、そんな弟への罪滅ぼしかもしれなかった。
母は東京の美容学校を卒業して、昭和三十年の二十三歳のときに善光寺
門前、東之門町に店を開いた。東京の美容学校に行く人など稀な時代で、
朝の五時からお客が列を成していたという。お弟子さんを雇って、
ばんばん働いて、当時のサラリーマンの何倍も稼いでいた。そしてよく
遊んだ母だった。お弟子さんや友だちを連れて高級な料理屋に行ったり、
あちこち旅行にに出かけたり。宝石や着物や洋服にためらいなく
散財をしていた。兄たちが片付けていたら、未使用のハンドバッグや
洋服がいくつも出てきたという。あんまり散財ばかりしていたから、
買ったことすら忘れていたのだった。
実家から持ち帰った古いアルバムを開いたら、知らなかった頃の若くて
おしゃれできれいな母の姿があった。
全力で生き抜いた人生だったねと、しみじみ眺めたことだった。
真夜中の病院去りぬ冬の月。
辰の年の終わりに。
2024年12月25日
へこりと at 06:17
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師走 7
今年も日本のあちこちで災害が起きた。元日、巨大な龍が能登半島で
暴れた。土砂が崩れ津波が押し寄せ、大きな火災が起きて、家屋がつぶれ、
たくさんの犠牲者が出てしまったのだった。よりによって一年の始まりの、みんなが明るく穏やかに祝いの気持ちでいるところに襲った災害だった。
悲惨な年明けに、能登のかたがたの心情を思うとなんともやりきれない
気持ちになった。
仮設住宅が出来て、避難所での窮屈な暮らしから解放されたと
思ったら、九月には再び天の龍にやられた。豪雨によって川が氾濫して、
道路が冠水して、家々に水があふれ、またしても犠牲者が出てしまった。
十月に、能登半島の入り口、七尾に行ってみたら、JRの七尾駅から港まで、わずか800mの通りのあちこちに、地震で壊れた家屋があちこちにあり、
重機で壊されている家屋もあった。
元日から遅々として進んでいない復旧を見て、暗い気分になってしまった。
ユーチューブを開いては、能登の様子を観ている。
水道に電気にガス、この年末に来てようやく使えるようになった地区が
あり、復旧が進んでいないのだった。
能登地震がずっと頭から離れない、そんな辰の年だった。
毎年、景気が悪く貯えもなく、この先どうなるかと思うと、バカ酔っぱの
お気楽な身でも、不安がつのって来る。
それでも、借金もなく住む家があり、毎日好きなものを飲み食い出来て、
暖かな布団で寝られること。どれだけ有難いことか、よくよく感じた一年
だった。
能登のかたがたはどんな気持ちで新たな年を迎えるのだろう。
壊れた家屋の片づけをするかたや、仮施設で商売を再開した輪島の
朝市のかたや地元の商店のかた、ご家族を亡くされたかた、あれだけの
つらい思いをしたのに、皆頑張ります、頑張らなきゃと笑顔を見せる。
ほんとに頭が下がる思いになる。
冬の寒さが増してくる。能登のかたがたはこの一年、心身多大な無理を
かけてきた。年が明けてもまだそんな暮らしが続いていく。
どうか無事に乗り切っていけますように。
巳の年、気持ちを込めて祈りたい。
一年間親しくさせていただいた皆さん、ありがとうございました。
良い巳の年を迎えられますよう。
被災地へ思い重ねて年の果て。