日向子さん
神無月 十
好きな作家の一人に杉浦日向子さんがいる。
漫画家で江戸風俗の研究家で、
テレビに出ていたときに、大きな目をくるくるさせながら
穏やかな語り口で江戸の話をされていた。
銭湯と蕎麦屋と日本酒が好きだというところが好い。
ひと風呂浴びて、馴染みの蕎麦屋で一杯。
気の合う仲間とのにぎやかな宴。
読んでいると、一人の酒も、他人様を交えての酒も
ていねいに過ごされてきた人とわかる。
口のきれいな人で、油のつよいカツや天ぷらを食べない。
上等な刺身もかえって気が散ると口にしないという。
たたみいわしが好物で、さっとあぶったのをかじりながら
ありふれた本醸造の熱燗、を大ぶりのぐい飲みでやっていると、
ちうくらいのほど良い幸せを感じるという。
そんな枯れた酒飲みになりたいのに、
酒のうんちくをとうとうと並べて酩酊して、
刺身とまちがえておしぼりを箸でつまんでいるようでは
到底足もとにも及ばないとなさけない。
おもい病気にかかって漫画家をやめて、
仕事の量も減らして隠居宣言をした。
隠居になるとは、手ぶらの人になることと思う。
手ぶらは、持たない、抱えない、背負わないだが
ポケットには小銭がじゃらじゃら入っているし、
煩悩なら鐘を割るほど胸にある。
世俗の空気を離れず、濁貧に遊ぶのが隠居の余生だという。
無用な義理や目先の欲に気持ちを持て余すとき
そんな台詞が染みてくる。
六年前の夏の日、四十六歳で彼岸に旅立った。
お会いできることがあったなら、
元屋の三畳の入れ込みで、
七笑の燗酒を酌み交わしたかったものと、
読むたびにそんなことを思っている。